各国の比較文学研究史:ロシア
——(ロシア帝国/ソビエト連邦/ロシア連邦)

加藤 百合
(筑波大学人文社会系・教授:日露比較文学、翻訳史)

1 19世紀ロシア文学の状況——ロシア文学は比較文学的に成立した
2 19世紀の比較文学研究——比較文学のクラシック:ヴェセロフスキー
3 20世紀の比較文学研究——ソ連期の「世界文学」研究:ジルムンスキー、コンラド
4 比較文学研究の現時点——ポストソビエト空間における比較文学
5 比較文学研究の今後について

1 19世紀ロシア文学の状況――ロシア文学は比較文学的に成立した

 ロシア文学の成立は、現在ロシア文学が世界の文学のなかに占める存在感からみると信じがたいほど遅い。ロシア人たちの祖であるスラヴ民族が最初に国家としてのまとまりを宣言した大公国ルーシの成立が882年、既に地中海をめぐる地域はフランク王国、東ローマ帝国、アッバース朝イスラム帝国といった帝国が押さえており、のちのいわゆる「西洋」的視点からみれば北東の辺境の新興国であった。聖帝とよばれるウラジーミルがキリスト教の東方教会である正教会を国教化しビザンチン帝国の後裔を名告るのは10世紀末、そこからようやく教会文書や聖者伝が文字によって書かれ読み継がれる中世文学期に入っていったのである。一方世俗の文学は口承のフォークロアとしてのみ存在した。大帝と美称されるピョートルが、フィンランド湾に面するサンクトペテルブルグという新首都を建設して「ヨーロッパへの窓」として港を開いた1703年以降、教育をうけた貴族層のみではあるが流入する西洋文学を読みまたヨーロッパへの官費留学が制度化された。のちに明治維新のモデルとなった西欧化政策である。しかし18世紀は一方的にフランス語でフランス文学を読み、ドイツ語でドイツ文学を読み、英語で英文学を読み、表象も西欧諸語あるいはギリシャ、ラテンの古典語ならびにヨーロッパ言語で行った時代であり、ロシア語で書かれたロシア国民文学はまだ確立していなかったと言ってよい。西欧諸語が教育・学術言語であると同時に文芸言語でもあった。
 ロシア国民文学(ロシア語圏文学)の成立を語るうえで欠かせない巨人たちの名を挙げる。彼らはロシア文学史上きわめて重要な役割を果たしたが、彼らの文業を見ると、ロシア文学が孤立的あるいは自立的に発生したのではなく、比較文学的に成立したという特徴が理解できよう。
 まず18世紀前半、ロモノーソフ(Михаил Васильевич Ломоносов, 1711-65)である。彼は、留学しその後活動していたドイツ・マールブルグにおいて『ロシア詩法に関する書簡』(Письмо о правилах россиийского стихотворства, 1739)を執筆した。これは、彼がロシアのアカデミーで学び若年から親しんだ古典古代のギリシヤ・ラテン詩、またローマのホラティウスHoratiusの『詩論』(Ars poetica)、フランスのボワローN.Boileau-Despréaux(1636-1711)の『詩法』(Ars poétique)、ドイツのゴットシェートJ.C.Gottsched(1700-66)の『ドイツ人のための批判的作詩法の試み』(Versuch einer kritischen Dichtkunst fur die Deutschen)などを研究し、それまで音節詩法(一詩行の音節数を整える)でつくられていた詩を、音節・アクセント詩法に改めることを提唱したものであった(注1)。音節詩法は、フランス語、イタリア語、ポーランド語のように語の一定の位置にアクセントが置かれる言語において適した詩法と言えるが、ロシア語のような、語によってアクセント位置が異なる、いわゆる自由アクセントの言語においては詩の音楽性としてうまく機能していなかった。にもかかわらずポーランドから「輸入」された音節詩法による作詩が継続されたことは、詩歌が個人の感情の表象ではなく、頌詩が中心で、教会で確立していた詠唱のような朗読法で読まれることを前提として成り立っていたと説明される。一方で口承文芸(フォークロア)/俗謡においては、各詩行にアクセント音節が3つ(4つ)配置されてリズムを支えるアクセント詩法が、理論化はされていなかったが存在していた。自由アクセントでありかつアクセント母音が強勢のある長音となるロシア語において、詩のリズムにはアクセントの配置が音節数の統一よりも重要である。ロモノーソフは『書簡』のなかで音節・アクセント詩法を提唱し、そのことによって強弱拍(ホレイхорей)弱強拍(ヤムプямб)(さらには強弱弱拍(ダークチリдактиль)弱強弱拍(アムフィブラヒイамфибрахий)弱弱強拍(アナペストанапест)…)といったロシア詩型の発展への基礎を築いたのである。
 19世紀の幕開けに登場したプーシキン(Александр Сергеевич Пушкин, 1799-1837)は、言わずと知れたロシア語とロシア文学の父であり、ベリンスキーは彼を「最初の国民詩人」と呼んだ。彼は軽快な弱強短詩脚であるヤムプを得意とし(さらにロモノーソフが忌避した弱弱拍(ピリーヒイпиррихий)をおおいに活用し)、平易な日常語彙を駆使して自由への希求、友情や恋や憂鬱といった感情を詩にうたった。彼の文学に、耽読し深く研究したスコット、バイロン、シェイクスピアなどの影響がみられることについては多くの先行研究が証している。『大尉の娘』などの散文にはことにスコットの歴史小説の影響が顕著である。中世(スラヴ文化)のなかから、プーシキンという最初の国民詩人・国民作家が、すでにロマン主義に染まって登場したというこの事実は、ロシアの比較文学者によって「ロシア文学はルネッサンスをもたない」という言葉で記述されることになる。
 プーシキンの後継者たちが19世紀ロシア文学の黄金期を担ったのであるが、彼らはプーシキンが書いた近代ロシア文学のテーマを継承し、くりかえし作品化した。殊に、彼ら知識階級とはすなわち人工都市サンクトペテルブルグの西欧パノラマのなかで西欧モデルを演じる貴族であり、国民の実に80%以上にのぼる地方の農奴や都市の労働者などと隔絶した存在(「根無し草」)であるという自意識から、「ピョートル大帝の西欧化政策」「ペテルブルグという幻影都市」を肯定するか否定するか、また(ロシアは)「東か西か」というナショナルな問題が常に自問されていった。

(注1) ロモノーソフの詩法について、特にその典拠となった西欧の作詩法を論じた古典的著書については、植田宏昭氏の修士論文概要「ロモノーソフの詩法について —その『ロシア詩法に関する書簡』執筆経緯を中心に— 」ueda3.pdf (dti.ne.jp) に依拠した。

2 19世紀の比較文学研究――比較文学のクラシック:ヴェセロフスキー

 比較文学研究をロシアで確立した文学者はヴェセロフスキー(Александр Николаевич Веселовский (1838-1906)であることが知られ、彼の著作が比較文学の古典(クラシック)とされている。彼は官費留学でベルリン、プラハ、チェコ、またイタリアに滞在し、計約10年に及んだヨーロッパ留学の成果としてイタリアのジョヴァンニ・ゲラルディについて学位論文を書いた。その後その同時代(イタリアのルネサンス期)のダンテ、ブルーノ、ボッカチォなどの研究を進めるなかで「歴史的比較文学研究」という領野を開拓していった。
  環地中海の広域的に存在する文学テーマや表象の淵源を研究する、いわゆる《さまよえるストーリィ》бродячие сюжеты研究はイギリスおよびヨーロッパで19世紀に発達し、特にフォークロア/民話研究において考察がすすみ、西欧の民話の淵源がインドなど東洋に発見されるといった成果が充実していた。また、実際に歴史的に発生した複数の文学の相互影響関係も研究対象となっていた。ヴェセロフスキーはストーリィсюжетをさらにモチーフмотивへと分解して論ずることで、直接の伝播関係が無くともフォークロアの縁故性を見いだすことができることを強調し、西欧文学の比較文学的考証にも貢献したと言える。
 しかし、ヴェセロフスキーは、ヨーロッパ文学史の文脈に寄与してこなかったロシア文学を把握しさらにその将来を予見したかったのではないだろうか。彼は文学の歴史的発達の法則性を見いだすことを目指した。各国文学のルネサンス、ヨーロッパ文学のロマン主義とロシア文学のロマン主義の比較などについて夥しい数の論文を書きつつ、種々の国民文学史の相似と相違について考え、文学史に法則性を見いだそうとしたのである。帝国の興亡など歴史全体に法則性が働いているのならば、文学史にも法則性があると考えた。一連の研究の成果は「科学としての文学史研究の方法論と諸問題」(О методе и задачах истории литературы как науки)という題目で行われた講義に最初のまとまったかたちであらわれた。彼は、後進の文学研究者たちに、自分たちは国民文学の発達史のなかのある《エポック》を研究しているという意識をもたせようとした。時代を震撼させた大事件と同時代「生活史の些事」を並置して考察し、エポックメーキングなできごとがどのような要素の集積に起因するのかを見極めるという歴史学的な手法を文学研究に応用しようとした。彼の比較文学研究は詩の領域に始まり、叙事詩(epic,ロシアではбылина)、抒情詩(lyric, 同лирика)、演劇(drama, 同драма)が生成する画期の、各民族の時代精神の様相を復元し、国家や社会や民俗や国民精神などの発展段階や、そのジャンルの支持基盤を考察した。こうした研究から、時代相は文学のみならず美術など他の芸術を包括するエポックであるとの見通しをもつようになった。
 中世以降、古典主義からロマン主義へ、またリアリズムへと、各国民文学はその国(文化圏)の歴史的段階の成熟に従って芸術(ジャンル)を変遷させてきた。こうした「文学史の法則性」という理論性を確立したことにより、ヴェセロフスキーはロシアの比較文学研究をひとつの学派として確立したと言える。彼の学派は言い換えれば「世界文学」史観であろう。

3 20世紀の比較文学研究――ソ連期の「世界文学」研究:ジルムンスキー、コンラド

 革命を経てソビエト社会主義共和国連邦となったソビエト・ロシアの学問的空間が苛烈な監視と制約を受けたことは周知である。なかでも西側諸国との直接間接なつながりをもつ人々は、しばしば生存すらも許されない《粛清》の対象となった。「コスモポリタニズム」という用語は、反コスモポリタニズムという文脈で猛威を揮った。これは「国民精神の放棄」「淵源からの逃亡」といった意味を付与され、ソ連の国家イデオロギーの枠に収まらない《過度に》外国思想に開放的な人々、すなわちインテリ(文学者/思想家)の《粛清》基準となった。特に1940~50年代は国家への忠誠度が厳に監視され、一般的な学問史記述の上では文学研究の暗黒/空白期とされるのであるが、実はそのなかにあって、比較文学研究は帝政期からの学派との連続をある意味維持できたと筆者はみている。それは、ヴェセロフスキーが既に比較文学研究を「文学史の法則性」研究へと変換していたからではないかと考えられる。異なる文化圏の文学間の類似を、伝播という影響関係ではなくいわば社会の下部構造の近似により説明する考え方は、社会主義リアリズムの文学を「ブルジョア・リアリズム」を超克する高次の文学であると措定すれば、マルクス主義的思考と抵抗無く共存できるものになり得た、と言えるのではないか。
 ジルムンスキー(Виктор Максимович Жирмунский, 1891-1971)は、ヴェセロフスキーがサンクトペテルブルグ大学文学部に開いた「ロマンス⁻ゲルマン語学科」で学び、その学派を直接的に継承した。英文学、独文学の個別研究を歴史比較文学的手法で進めたばかりでなく、ロシア文学の比較文学的研究を発展させた。もっとも知られた業績に『バイロンとプーシキン』(学位論文;1924)など、ロシアにおけるバイロニズム研究がある。1920年代、弾圧の対象であり抑圧されたアフマートヴァ(Анна Андреевна Ахматова, 1889-1966)らアクメイスト(注2)たちを「象徴主義を克服した者たち」と呼んで評価したことも、彼の文学史観がダイナミズムを内包するものであったことを示す。
 翻訳、とくに「職業的翻訳家ではなく自由意思をもって翻訳を行った文学者」が行った翻訳を、原作を異なる言語文化圏で再生させることによる積極的変容とみなし、翻訳を創作と同じく(再生される先の)文学史のなかの事件として取り扱うという姿勢もジルムンスキーの注目すべき点である。これにより、中央文化が周辺に伝播/派生する(翻訳によって先進文化思想が受容される)という西欧中心の文学史観からの脱皮がすすめられた。また、ストーリィ(アイデア)の受容ではなくモチーフの移動というヴェセロフスキーの視点を深化させ、ジルムンスキーは、外国文学の形象の受容は、アイデアの流入ではなく形象の再生産であり、原作との文化的闘争を経て積極的な変容を遂げているとした。
 1935年にはプーシキン研究所(Пушкинский дом; ИРЛИ РАН)のなかに「ロシア文学と海外文学の相関」研究科をたちあげロシア文学研究のなかに比較文学理論を生かそうと試みた(これは以後、数十年にわたり空洞化するのではあるが)。
 東洋学者たち、とりわけ、日露戦争後日本に留学派遣され第一次革命を機に帰国後レニングラード大学(旧サンクトペテルブルグ帝国大学)日本学科で教鞭を執った日本文学者たちは、戦間期のソ連においてもっとも苛酷な運命をたどった。そのなか、ひとり両首都の学界を生きぬいたコンラド(Николай Иосифович Конрад, 1891-1970)が比較文学研究の視点をもっていたのは必然であった。コンラドはヴェセロフスキー、ジルムンスキーを継承した。コンラドの代表著書である論文集『東と西』におさめられた論文には、日本文学史にも、世界文学史が踏んできた発展の過程を論証しようとする、ロシア学派特有な姿勢が明らかに見られる。同集のなかに「東洋のルネサンス」という語があることは現在やや違和感を覚えさせるが、これは、西欧との貿易/交流をはじめ、さらに近代西欧の社会/文明的影響を被って資本主義へと移行するより以前の時代(8世紀から12世紀)の日本文学を世界文学の中で高く位置づけることにつながった。
 第二次革命以降の戦間期、コンラドは『方丈記』(1921)『伊勢物語』(1921)『源氏物語』(抄:1924-27)『平家物語』(1927)などの古典の学術的翻訳を出し、弟子たちをもまた古典翻訳に向かわせた。コンラドが1940年代以降に編んだ日本文学のカリキュラムは、日本文学の通時的《発展》を行き届いた作品翻訳を講読しながら学ぶもので、現在の日本文学科においても基本的に踏襲されている。
 こうして、ソ連期には社会主義リアリズムの《前段階》とされた「ブルジョア文学」とみなされるものが遮断され、それはいわゆる「近代」がほぼ黙殺されたことではあったものの、古典文学から社会主義リアリズムの文脈で読まれ得る文学まで、日本文学研究の命脈は保たれた。また、コンラドは、ロシア語からの直接訳で世紀末のロシア象徴派を翻訳紹介した昇曙夢(1878-1958)の功績を「文化の媒介者」として高く評価するかたちで日露文学交流史を論じた。論文集『東洋と西洋』に収録されたコンラドの論文は、昇曙夢が1928年にトルストイ誕生百年祭に国賓として招待されるきっかけとなった。

(注2)1910年代、アンナ・アフマートヴァ、ニコライ・グミリョフ、オシップ・マンデリシュタームなどは機関誌『アポロン』に拠り19世紀末に興隆した象徴主義の神秘性を否定して明確な塑像性を志向する詩作をめざした。彼らは自分たちの先達としてシェイクスピア、ラブレー、ヴィヨン、テオフィル・ゴーティエなどの名を挙げており、その新古典派的志向は、すぐあとに登場したマヤコフスキーやフレーブニコフら未来派などよりラディカルな主張をもつグループからの批判の標的ともなった。しかし両派をふくめた文学者たちは、30年代スターリン期以降社会主義リアリズムによって窒息させられたと言える。

4 比較文学研究の現時点――ポストソビエト空間における比較文学

 1980年代、ソ連末期グラスノスチ(透明性)が語られ西側の文化/文学が浸透しだすと、西欧において近代資本主義のもとで生まれ興亡したさまざまなジャンルがロシアの若者たちに受容され、音楽では《ソ連ジャズ》《ソ連ロック》などがアンダーグラウンド文化として強い支持を得た。文学作品も公認の出版計画をよそに、《サミズダート》(самиздат:発禁書を手書き書写、カーボン紙複写、コピー、写真などによって非公式に複製する地下出版)によって回覧流布された。ブルガーコフ(Михаил Булгаков)の小説『巨匠とマルガリータ』Мастер и Маргаритаなど、作者生前には《サミズダート》で読まれていたものが、ソ連崩壊後になって公刊されるようになった作品は数多い。
 ソ連邦崩壊後の30年間は、社会主義圏の外の文化・文学との影響関係や交差が現実のものとなり、それ以降の比較文学研究は「ポストソビエト空間」の比較文学と銘打たれる傾向がある。西側からの文化の越境やジャンルの越境が積極的に生じ、それにともなって、ロシア作家と海外文学との間の受容/間テクスト性/影響の具体的な追跡を行う研究は、それまでの抑圧から弾けたように爆発的に増加している。また、20世紀以降西洋において盛んに興隆したさまざまな文学理論をロシアおよび旧ソ連圏の文学に応用して行う文芸批評は、ロシアの文学研究者たちが西側の学界に貢献しつつ進出することを可能にしている。ロシアの比較文学界は20世紀の文学理論を早回しで体験して、近年では、チェルノブィリ原発事故を原爆文学という問題領域に接続させ、ポストフクシマの文学とともに論じようとするなどエコクリティシズムの文脈の共同研究へと到達している。

ポストソビエト空間の比較文学研究の最前線の動向は、サンクトペテルブルグとモスクワに所在する文学研究所のURLの発信によってある程度把握できる。
「ロシアと海外文学の相関」研究科URL (プーシキン研究所(Пушкинский дом; ИРЛИ РАН)): http://pushkinskijdom.ru/otdel-vzaimosvyazej-russkoj-i-zarubezhnyh-literatur/
「西洋各国の文学および比較文学研究」研究科URL (ゴーリキー世界文学研究所(Институт мировой литературы имени А.М.Горького; ИМЛИ РАН): https://imli.ru/otdel-klassicheskikh-literatur-zapada-i-sravnitelnogo-literaturovedeniya
ロシアの比較文学理論は、ヴェセロフスキー、ジルムンスキーを書き換えるような進展は見せていないが、例えばゴーリキー世界文学研究所の公開する動画において最近ヴィロライネン博士(М.Н. Виролайнен)が行ったロマン主義の位置づけは古典的な史観に修正を要請するものとして注目できる: https://www.youtube.com/watch?v=Fxi_2Z-3rvQ&t=2s

5 比較文学研究の今後について

 冷戦期のソ連は巨大な連邦国家であり、《ソ連文学》は多民族多言語の共和国の国民文学をロシア語/ロシア文化という共通言語に綯い合わせるという大きな文脈をもっており、社会主義という、民族や文化の境界を超える理念については開かれていたはずであった。すくなくとも建前上は、文学研究はナショナリズムによって閉ざされていなかったのである。
 しかし2022年2月24日以降、百年前よりももっと深刻な世界の分断が生じその亀裂は広がり、深まる一方である。今後ロシアは、ロシアナショナリズム以外の言葉を完膚なきまでに抑圧する暗黒から脱し、再び比較文学的視野を許容できる国になれるだろうか。いつなれるだろうか。ロシアに軸足を置く比較文学の徒として、思いがけなかったことであるが、今という時点は目を離すことを許されない、しかし残酷なクライシスと感じられる。

出典および関連文献:各国の比較文学研究史—ロシア(ロシア帝国/ソビエト連邦/ロシア連邦)

  • 加藤百合『ロシア史の中の日本学』東洋書店、2008年
  • ニコライ・コンラド『東洋と西洋』上・下巻、大沢正ほか訳、理論社、1969年
  • ソヴエート中央委員会編『日本歴史』早川二郎訳、白揚社、1934年
  • Веселовский А. Н. Избранные статьи (вступит. ст. В. М. Жирмунского, комментарий М. П. Алексеева), Л.: Гослитиздат, 1939.
  • Конрад, Н.И. Запад и Восток: Статьи, М.: Наука, 1966.
  • Жирмунский В.М. Сравнительное литературоведение, Л.: Наука, Ленинградское отделение, 1979.

専門研究の道しるべ