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2006年9月15日

「フルクサス」展(86号掲載) 小林 将輝

小林 将輝
執筆時 : 学習院大学、白百合女子大学非常勤講師
雑誌情報 : 『比較文學研究』86号、2005年11月、193~197ページ


現代芸術とは何か近寄りがたいものだというのは一般的な見解ではないだろうか。難解な作品を前にして、予備知識や心構えがなければ、鑑賞者は戸惑うばかりである。私自身、芸術とは「美を鑑賞する」ものであり、単にその美的な形態に感心し、それが翻って日々の生活の慰めになるようなものでいいと思うときがある。芸術に対してこのように保守的な考えを持つ私が、うらわ美術館で開催された「フルクサス展―芸術から日常へ」を訪れることになった。それは意外にも興味深い体験で、芸術と生活の関係を考える良い機会となった。うらわ美術館は、地元のゆかりの作家の作品の収集と並んで、日本で唯一の「本のアート」を収集している美術館として知られ、これまで意欲的な展覧会を催してきた。そのうらわ美術館が開館五周年を記念して、フルクサスを取り上げたのである。

フルクサスとは一概に定義が難しいのだが(注1)、リトアニア出身のジョージ・マチューナスを中心に組織され、世界中で展開された六十年代のアートムーブメントの一つである。その主要コンセプトは、日常生活と芸術の境界をなくすこととされる。マチューナスは六十五年に発表した「マニフェスト」において、一般的な芸術概念に対し、フルクサスを「アート・アミューズメント」と位置づけ、「何でもアートになりうるし、誰でもアートができる」とした(注2)。フルクサスのアーティストたちにとって、芸術はハイカルチャーに組み込まれるような自立した価値を持つ特権的、固定的なものではなく、誰もが楽しみながら積極的に関わることができるものである。例えば、フルクサスの音楽イベントの代表的なものでは、番号の振られた紙に従って、観客がそれぞれ自分の好きな番号のところで、なんでもいいから声を発するというものがある。観客が能動的に参加することで、偶然的な音の連なりからなる音楽が出来上がり、「作品」が完成するのである。

今回のうらわ美術館の展覧会では、マチューナスの活動した時期に焦点を絞り、約五〇〇点のフルクサス作品と資料が展示された。主要な展示物であるフルクサスの代表的な作品、出版物、資料などは充実しており、巨大な図版パネルによって当時のこの運動が見渡せるようになっていた。同時代の芸術動向の展示や、映像・音楽メディアによる紹介もなされ、この分野の広がりも見ることができた。特筆すべきは、幾つかのフルクサスの作品・イベントが再現されていた点であろう。それらは皆、鑑賞者が実際にふれて参加できるようなものであり、フルクサスを直接「体験」できるようになっていた。総じて見ると、国内のフルクサス展覧会としては非常に充実した展示であったといえるだろう。

個々の展示では、マチューナスが考案した『フルクサス・イヤーボックス』がまず目に入った。これは木製ケースに入った書籍の形態をしているものの、ページにあたる部分が封筒になっており、封筒にはそれぞれアーティストによる小作品が入れられている。同様のコンセプトに基づいて作られた『フルクサス・キット』は、トランクの中に多数のアーティストの小作品が仕切りの中に収められており、デュシャンの『トランクの中の箱』を思い起こさせる。マチューナスは出版活動を重視し、この他にも数多くのこの種の「出版物」を製作し、フルクサス・ショップという販売拠点を設けて通信販売を行った。実際は多くは売れなかったとはいえ、本やトランクといった携帯可能なものに多数の小作品を詰め込んだことや、一般の人がたやすく購入できるような体制を整えたことは、芸術を生活の身近なものにするというフルクサスのコンセプトをよくあらわしている。また、中に入れられたアーティスト個々の作品は、チープで日常的な素材を用い、それぞれ趣向を凝らしたものである。例えば『イヤー・ボックス』に収められているのは、小さな鏡が入っているだけの『セルフ・ポートレイト』(オノ・ヨーコ)、封筒に穴が開いており、そこに指を差し込んで感触を楽しめるようになっている『フィンガー・エンベロープ』(靉嘔)などがある。『フルクサス・キット』には、紙の小箱を開けると中にはまた一回り小さな箱が入っており、それが幾つも続く『エンドレス・ボックス』(塩見允枝子)、小さなボールと不可解な指示書が入った『ゲーム&パズル』(ジョージ・ブレクト)、あるいは映像作品『ゼン・フォー・フィルム』の16mmフィルムループ(ナム・ジュン・パイク)などが収められている。どれもただ鑑賞すればよいというものではなく、手に取ったり、何らかのゲーム的な操作をして、それが自然なリアクションを誘発するようなものである。小作品群はキッチュで、正直に言ってどれも批評に困るようなものであるが、おそらく批評する―されるというような態度とは相容れぬ性質を持っているのだろう。フルクサスの思想の一つに、ギャグやジョークの感覚に基づいて作品に関わるというものがある。つまり単純な面白さや、新奇さ、意外性などを重視したのである。ギャグやジョークは、大真面目に批評したりするものではない。フルクサスはこの点をうまく利用しているように思える。

この価値判断から逃れるような態度は、政治的なものへの無関心な態度とも言いかえることができる。フルクサスは明確な思想の表明でもなく、同時代のコンセプチュアルアートが熱心に取り組んできたような、現実の隠された(権力構造の)文脈を暴き出すことを目指すものでもない。一晩中議論をしているアーティストたちを尻目に、彼らは自らが「面白い」と思えるような作品やイベントに携わってきた。

芸術は審美的なものでもなく、かといって政治的なものでもないとしたら、フルクサスの言う「日常性」とは何であったのだろうか。「誰でもアートができる」というのは建前であろう。ギャグやジョークには質が求められるのであり、ある種の洗練さを必要とする。それを彼らは良く知っていたし、それを実践するのは彼らだと考えていたに違いない。なによりもマチューナス自身が、自らをチェアマンとしてフルクサスの組織化に熱心に取り組み、自らの意に沿わないアーティストたちを排除してきたのである。展示物を見たり鑑賞者参加型の作品を体験してみて、とまどったり、何か思い切ってそれに加わるのがためらわれるように私は感じたが、それはおそらくこのフルクサスの排他的な側面のせいではないだろうか。

展覧会から帰ってきて、いくつか印象に残った展示を思い出してみると、オノ・ヨーコの作品が思い浮かんだ。オノの鑑賞者参加型の作品が幾つか再現されていたが、それらはフルクサスのコンセプトと合致しながらも(注3)、それだけでは評価できない側面があった。『メンディング・ピース』は、テーブルの上に壊れたカップが置かれており、それを鑑賞者が接着剤や紐で直すというものである。美術館という日常とは離れた場所でテーブルに向かい、カップを修復をするという行為は、その行為自体を浮かび上がらせる。また、修復されたカップはいびつで、はっきりと裂け目が残るがゆえに、もとの形に戻すことに対する喜びはなく、むしろ参加者は「裂け目」や「壊れた」というイメージにとらわれてしまう。そしてそのイメージは、たやすく記憶や体験という個人的なものへと結びついてしまうだろう。作品が個人的なものを導くというこの点において、このイベントは他のフルクサスの作品とは異なっている。フルクサスは誰にでも理解できることを重視したゆえに、「エコノミカル」(注4)でシンプルなゲーム性を持っており、それゆえその基本的な仕掛けにおいては、アクション―リアクションが短い時間で機械的に生じるようにできている。靉嘔が、フルクサスでは「情緒」はなくなっていくと述べているように(注5)、鑑賞者が個人的な感情を投影するような余地はないのである。

オノと同じように、フルクサスのコンセプトを踏襲しつつも、その枠組みから外れるようなアーティストとして、もう一人塩見允枝子が思い浮かぶ。『スペイシアル・ポエム』シリーズの『ワード・イベント』では、塩見は世界各地のアーティストに白紙の紙を送り、その紙に何か言葉を書いて、現実のどこかに置くように指示した。書かれた言葉は塩見に返送され、小さな紙製の旗に印刷されて、世界地図の板に挿された。「広いコミュニケーション」(注6)を目指したこの作品は、アーティストが別の人に何かを指示をするという点でフルクサスのコンセプトに合致しているが、指示をする対象は世界へと拡大している。郵便のやり取りをとおしてつながる人間同士の関わり合いが視覚化され、世界がコミュニケーションのネットワークとしてたちあらわれてくる。現実の匿名の場は、そこに言葉がおかれたという事実とその行為者とコミュニケーションをとったという事実において、意味と方向付けが与えられるのである。一方、鑑賞者は旗を挿す作業を任されるのだが、作業を通じてそのネットワークを体感し、言葉が置かれている場面や、言葉の書かれた紙片が置かれた場所を想像することになる。そうして鑑賞者にとっても、世界の見知らぬ幾つもの土地が、ある関連性を持った詩的で親密なものへと変貌することになる。

オノや塩見の作品が特に印象に残ったのは、それが個人的なものや鑑賞者の想像力を媒介にして成立しているという点ではないだろうか。新奇なものや意外性を持ったものに対して、あえて積極的に関わっていこうという気になるためには、そこに自分自身を投影したり、個人的なものとの関連において、それらを結び付けることができるような場合である。そのときはじめて、鑑賞者にとって作品は親密なものとして日常性を獲得するのではないか。

展覧会カタログについても一言述べておきたい。フルクサスとそれに関連する同時代の芸術動向の作品とその資料など一次資料は、図版とコメントで十分に紹介されている。それに加え、マチューナスを中心としたアーティストたちの交友関係を網羅するアーティスト・マップ及び関連年表も載せられている。特にアーティスト・マップは、年ごとにそれぞれの交友関係の変化が分かるように丁寧に作られているのが良い。また、日本人でフルクサスに関わったアーティストらによる座談会「フルクサス・ユニバース」が採録されているが、これはフルクサスの内部から、その活動の多様な側面を語っている貴重な資料であり、実際にこの評論でも多く引用した。巻末の二次資料のリストは海外の資料が少ないものの、量的にはもうしぶんのないもので、今後フルクサス研究者にとって役に立つ情報となるだろう。ざっと見てみると、日本ではフルクサス批評やインタビューなどは多くあるものの、定本といえるような研究書はいまだ出ていないようである。フルクサスがその後のポスト・モダンの芸術に与えた影響は大きく、また、日本での受容や展開という点も大きな研究領域となりうる分野なので、これらの問題を含めた研究書の出版が今後望まれるだろう。カタログについて大きな問題を挙げるとすれば、掲載論文が一本もない点である。「座談会」というフルクサス運動の「内部」からの視点だけではなく、批評家や研究者の「外部」の視点も紹介することで、フルクサスに対する多方面からの理解が補強されたことを思うと残念な限りである。また、会場では「フルクサス・オリンピアード」に使われた卓球台や、塩見によってジュゼッペ・キアリのピアノ作品などが再現されていたのだが、それにも紙面を割いていなかったのも気になった。

展覧会について気になった点は、日本の収集物を中心に展示し、日本でのフルクサス受容をテーマの一つに据えたということであるが、そこから何か日本固有の現象が見えてきたのかということが、いまひとつはっきりしなかった。なるほど赤瀬川源平らによる『ハイレッド・センター』のイベントは、フルクサスと共鳴するかのような日本での独自の運動であったのだろうが、それ以上の理解は得られなかった。また、フルクサスをまず一般の人に知ってもらうということも展覧会の目的であったとのことであるが、もう少し展示パネルなどを増やして、現代芸術に疎い鑑賞者にも理解の手がかりを与えてほしかったというのが本音である。フルクサスがムーブメントとなった六十年代はすでに遠く、それをそのまま現代の鑑賞者が同じ新鮮さで接することは不可能であろう。


1 フルクサスFluxusとはラテン語で「流動」や「変化」を表す言葉で、マチューナスが一九六十二年にヴィースバーデンで正式にその名を用いた。
2 本展カタログ、三十九頁。
3 オノの作品がフルクサスの傾向に合致しているというよりは、フルクサスがオノのアイディアを積極的に取り込んだと言うのが正確であろう。オノは、フルクサスの黎明期である六十一年に鑑賞者参加型の作品をとおして、マチューナスに重要な示唆を与え、それが後のフルクサスの中心的なコンセプトになっていったのである。ちなみに、この時の作品は『メンディング・ピース』のような「情緒」的なものではなかったようである。『メンディング・ピース』が六十六年に発表されたことを考えると、オノ自身、鑑賞者参加型のコンセプトを自ら発展させていったことが伺える。Jon Hendricks, "Uncovering Fluxus - Recovering Fluxus", in Thomas Kellein, ed., Fluxus, London, Thames and Hudson, 1995, pp. 119-120.
4 同、一二三頁。
5 同、一一三頁。
6 同、一二三頁。

[展覧会およびカタログ・データ]
「開館五周年記念 フルクサス展―芸術から日常へ」展
うらわ美術館(二〇〇四年十一月二十日~二〇〇五年二月二十日)。カタログはうらわ美術館発行、二〇〇四年、総頁数二百二十五。

2007年1月25日

「アジアのキュビズム:境界なき対話」展(87号掲載) 前島 志保

前島 志保
執筆時 : 日本学術振興会特別研究員
雑誌情報 : 『比較文學研究』87号、2006年5月、151~156ページ


「えーっ。これがキュビスム?」
 入り口近くのブラックとピカソの小品が掲げられた小部屋をぬけて進んでいくと、そんなささやき声があちこちから聞こえてくる。確かに、全体的に色彩を抑える傾向のある西洋のキュビスム作品に比べて、東南アジア、南アジアの画家たちのキュビスム作品の明るく透明感のある色使いは新鮮だ。多視点性が用いられていない半透明のグリッド構造によるヴェールを掛けたような画面からは、しっとりと湿った空気感が伝わってくるように感じられる。展示作の隣に添えられた解説によれば、こうした手法を「透明キュビスム」という独特の様式に発展させたのはフィリピンの画家ヴィンセンテ・マナンサラ(Vincente Manansala)だが、面白いことに、韓国の金洙(キム・ス)、中国の林風眠(リン・フォンミェン)らアジアの画家たちの間に広く見られる傾向であるそうだ。
都市の雑踏、路地の物乞い、機械化/工業化、戦争をモチーフにしたアジアのキュビスム作品と対していると、対象を一端突き放して分析・分解し再構成するキュビスムの手法が、戦争・近代化など社会の急激な変化を一歩引いた目線で冷徹に見つめなおす際に有効であるということに、改めて気づかされる。逆に言えば、アジア地域では、それだけ、一度立ち止まって客体化し、乗り越えていかざるをえないような急激な変化が多かったということだろう。この点で、韓国ではあまり根付かなかったというキュビスムの手法が、朝鮮戦争をモチーフにした作品には多用されているのは非常に示唆的だ。
西洋で取り上げられたテーマ以外にも、音楽、自画像、農村も主題となったこと、未来派的要素と混交され具象性が保持された結果、西洋とは違って宗教的/神話的な物語性のある主題もキュビスム的手法で表現されていること、1930年代中国の木刻運動における革命思想とモダニズム芸術運動の融合、バティックの伝統的な柄とキュビスム的な画面構成との創造的な出会い、アジアの近代芸術の展開における国際都市上海と各地の近代美術学校および美術教師たちの果たした役割の重要性とそれらの間の相互的な関係性など、興味深い発見が続く。
1950年代に宗主国から独立して国家を形成したアジア各地で「国民的絵画」の創造が目指された際には、土着の伝統とは切り離された「近代画法」の典型としてキュビスム様式が多く採用されたという事実も、本展で初めて知った。新しく成立した国家シンガポールの中華系の四人の画家がナショナルな「ふるさと」イメージの源泉を求めてバリに旅し描いたと解説された画を見ながら、彼らが「南洋」の先住人たちとその文化をどう見ていたのだろうかと思いを馳せる。この点は、今回、展示されていたチョン・ソーピン(鐘泗賓)の「小川」(1953年)(cat.no.7-08)だけからではよく分からないが、ラワンチャイクン寿子によれば、これら中華系の画家たちの作品を総体として見ると、彼らが「南洋」の人々に好奇の眼を向けつつも、同時に、「同胞」としても見つめていることが認められる、と言う(注1)。
また、明るい色調が印象的なマナンサラの「フアン・ルナの「血の同盟」」(1962年)(cat.no.4-24)は、キュビスム的手法が歴史的記憶の語りなおしに有効に用いられうることを示している。フィリピンの植民地化の発端となったスペインの征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピと土地の首長シカツナとの間の「血の同盟」締結場面をシカツナの視線から描いたフアン・ルナ(Juan Luna)の荘重な原画(1885年)に対して、マナンサラがキュビスム手法で描きなおした作品は平面的で明るく、鑑賞者の視線は画中のどの人物の視線とも重ならない。このため、鑑賞者は、フィリピン史上の一大転換点を華やかで客観的な画として、スペイン(征服者)側ともフィリピン先住人(被征服者)側とも異なる第三者的な立場から見つめることになる。
閉館十分前のアナウンスを聞き、最後に急いで会場中央に位置している小空間に入っていく。絵画が全く飾られていない、美術展としては異色のこの空間は、関連年表と画家たちの活躍地を示す世界地図、画家たちが残した言葉の断片の数々が散りばめられた三方の白壁に囲まれており、そこに立つ者の通時的・共時的な想像力を刺激し、70年に及ぶアジアのキュビスムの流れの中のそれぞれの時点と地域において芸術家たちがキュビスムとどのように関わりあいながら創作活動をしてきたのかを感じ取らせる仕組みになっている。本展で扱われている問題事項の多さ、そして、それを十分に理解し咀嚼するだけの情報(知識)量の少なさと強靭な知力の欠如にめまいを覚えながら帰途につく。
帰宅後カタログを読みながら考えた。「アジアのキュビスム」をどう考えたらよいだろう?
 カタログの諸解説を一読すれば、アジアでキュビスム的作品が製作されていた当時、当の作家たちが西洋の近代画法であるキュビスムの受容と土着化にいかに腐心していたかを垣間見ることができる。このような情況を踏まえてアジアのキュビスム作品の数々を積極的に評価する一つの方法としては、葛藤の過程を詳細かつ具体的に分析して、アジアの画家たちが西洋のキュビスム作品から何を主体的に取り込み、うち捨てて、独自のキュビスム作品を作り上げていったか、そして、それがその地における芸術のその後の展開の中でどのような役割を果たしたのかを考察するというアプローチがある。言語的記号、非言語的記号の双方を含めた<記号>の翻訳の問題としてこれを考えた場合、翻訳における「受け入れ側」(翻訳作品)の価値と意義を積極的に考えるということだ。本展の展示およびカタログの冒頭に掲げられているあいさつ文の「アジアの芸術家がキュビスム的動向をいかに受け入れ、いかにそれに応えてきたかという問題に焦点を当てる」という一節は、「受け入れ側」であるアジアの芸術家たちの自主性を重視する企画者側の宣言と読める。
ただし、この場合、受け入れ側の積極性、自発性を考慮に入れているとは言え、或る芸術潮流の翻訳を「発信する側(A)」から「受け入れ側(B)」への「受容」(A→B)として理解していることになる。つまり、分析・考察されるのは専ら「受け入れ側(B)」、あるいは「発信する側(A)」から「受け入れ側(B)」への変容であって、「発信する側(A)」自体が積極的に問い返されるわけではない。換言すると、分析の眼差しは主に「受け入れ側(B)」に注がれており、「受け入れ側(B)」に対する「発信する側(A)」の「原作」としての価値-「正統性」としての価値-と優位性は、さほど減じていない。
 「翻訳」を「受容」や「伝播」の物語から解放するには、どうしたらよいだろうか? 
ここで参考になるのが、ヴァルター・ベンヤミンの翻訳論である。ベンヤミンは原作と翻訳の地位の差を否定し、翻訳という行為を、ある言語から別の言語への移し変えではなく、不完全な言語をより完全な言語(「純粋言語」)へと補完するような作業として捉えることを主張した(注2)。これを記号間の「翻訳」一般に応用してみるならば、「原作」もその翻訳作品同様、「完全な言語」を目指したヴァリアントということになる。このような翻訳観に立てば、アジアのキュビスムも西洋のキュビスムもともに<キュビスム>という未だ完成されていない表現法の可能性を各々独自のやり方で引き出したものだと考えることができる(注3)。ちょうど、古句の読み直しを通して大須賀乙字が「二句一章」論を唱え評論と実作を行い、ほぼ同時期に、古句の翻訳に接したエズラ・パウンドが「重置法」を唱道しイマジズム運動を展開していったように、アジアの画家たちは、西洋のキュビスム作品に触れることで、独特なグリッドの用い方や新たなモチーフをキュビスム的手法で表現する道を拓いたのだ。
もちろん、そうは言っても、作品の制作当時、多くの芸術家たちがキュビスムおよび近代画法における西洋の優位性、正統性を感じていたことは否定できない。また、実際の分析作業としては、西洋のキュビスム作品とアジア各地のそれとを比較して、両者およびアジア内での差異を考察するということになるだろう。しかし、その際にも、上記のような「翻訳」認識に立てば、その比較は、「西洋のキュビスムからアジアのキュビスムに何が『正しく』移植されたのか」という問題意識に立たないばかりか、「前者から後者に何が『受容』されたのか/されなかったのか」という問題設定をも超えて、「両者の共通点・相違点は何か」という問いの立て方に基づいたものになるだろう。そして、もちろん、その過程では、従来のキュビスム認識そのものも問い直されることになるだろう。世界の近代芸術の展開過程における西洋と非西洋の非対称的な関係性を踏まえた上で、なおかつ、アジアのキュビスムを西洋のキュビスムとともに<キュビスム>の可能性を探究した試みとして捉え考察することは、想像するだけでも非常に魅力的な取り組みである。本展のカタログにも、このようなベンヤミン的な翻訳理解に通じるキュビスム観に立った解説が少なくない(注4)。
しかしながら、こうした翻訳観/キュビスム観が実際に展示を見た観客に伝わっていたかは、やや疑問である。というのも、展示に添えられた解説文は個々の作品あるいは類似テーマを扱った作品群の製作時の簡単な社会背景と鑑賞上留意すべき表現上の特徴に関する手がかりは与えてくれているが、我々はアジアのキュビスム作品をどういうものと考えて接していったらよいのかという根本的な議論は全く提示されていないのだ。それどころか、展示とカタログの図版部分に添えられた解説文は、しばしば、西洋のキュビスムを「時代性、地域性を超越した普遍的な様式」と要約するのに対して、アジアのキュビスムについては「西洋の普遍的キュビスム様式」の「土着化」や「伝統の取り込み」を、その様子を具体的に例示・分析しないままに強調し、結果的に「西洋=普遍」「アジア=土着(特殊)」という二項対立的図式を再生産してしまっているように見受けられた。アジアのキュビスムとアンドレ・ロート、フェルナン・レジェらのサロン・キュビスム、およびドイツとロシアのモダニズム芸術運動との関わりの深さを再三指摘している割には、ピカソとブラックの作品数点に「西洋のキュビスム」を代表させていることも、アジアのキュビスムを、ピカソらの「正統」キュビスムに対する「亜流」として見せてしまっていた。西洋を基準として語られがちな非西洋圏の近代文化を紹介する時は(そしてそのような認識の枠組みに異議申し立てをしたいという意図のもとに企画された催しであるならばなおさら)、そこで紹介される非西洋の近代文化の意義付けを企画者側がより明確に打ち出すべきではないだろうか。
この「アジアのキュビスム」展は、東京国立近代美術館初のアジア近代芸術展である。日本におけるアジアの近代芸術を扱った展覧会は福岡市美術館(現福岡アジア美術館)において一九七九年に始められて以来、近年、各地の美術館でも行われるようになったが、本展では、国際交流基金の他にも韓国国立現代美術館とシンガポール美術館が共同プロジェクトの立案者に加わっているのが、注目される。東京展の後は、ソウルとシンガポールでも順次、同展が開催されるそうである。管見によれば、これまで日本国内で催されてきたアジア近代芸術関係の企画展は国内のみの巡回が多かった(注5)。今回は、アジアの中でも経済力の強い三カ国に限られているとは言え、このような大プロジェクトを共同で企画・合同調査し相互巡回することが実現されたことに、将来のアジア圏内の近代美術展覧会における相互的な関わりあい方の方向性を見る思いがする。近年刊行されたキュビスムに関する包括的な書物『キュビスム』(注6)をみても、キュビスムの国際的展開として取り上げられているのは東欧、ロシア、アメリカのケースだけで、その他の地域におけるキュビスムの展開については言及されていない。恐らく、世界的に見ても、アジアのキュビスム的動向を扱った初の画期的な試みなのではないか。「テーブルの上の実験」「キュビスムと近代」「身体」「キュビスムと国土(ネイション)」の四つの大きなテーマ別に作品を提示するという展示方法も、国境や時代を超えた視点からアジアのキュビスム作品を見てもらいたいという企画者側の意欲に満ちた仕掛けと見てよいだろう。
カタログの方も、展示同様、意欲的かつ冒険的な試みに満ちている。本書は三つのパートに分けられており、Part1には、展示会場では空間的にも仕切られていた上記四つのテーマが四つの章となっており、それぞれの章に大小さまざまな解説文が収められている。続くPart2は、各国の専門家九名が寄せた「キュビスム受容史」、最後のPart3「資料編」では、作家の略歴、用語解説、地域ごとに整理された参考文献、出品リストまでが掲載されているという充実ぶり。論者たちの間でアジアのキュビスムに関する見解がまちまちであったり、文献の選択基準が地域ごとの専門家たちの間で一定していないのが気になるが、それもこの広範囲の地域における美術言説と研究方法の多様性を垣間見るようで、面白い。展示作品の図版は小さいものの、全てカラーで紹介されてある。本書は、今後、このテーマに興味を持つ者にとって、恰好の入門書になるのではないだろうか。
ただし、読みやすい本とは言い難い。例えば、各章冒頭の包括的な解説とそれに対応する図版が非常に離れた箇所に収められているうえに、図版の掲載頁数が必ずしも常に解説文中で示されているわけではないので、図版を参照しながら解説を読んでいくことが困難なのだ。せめて、引用されている図版のカタログナンバーだけでなく掲載頁数も解説文中に書いて欲しかった。また、西洋のキュビスム手法と土着の伝統の融合についてしばしば言及されているが、多くの場合(例外もあるが)、具体的にどのような「伝統(的文様、絵画、物語)」とどのように「融合」しているのかが示されていないのが、もどかしい。たとえば、ジョージ・キート(George Keyt)(スリランカ)らが装飾性に富む様式美を創出するにあたって「対話・融合」したという「地域の美術的伝統」(カタログ37頁)とは、どのようなものだったのだろうか。
本カタログの意欲的な点でもありまた問題点でもある点は、何と言っても、あまりにも多様な解説文がそれぞれの役割と関係性が不明瞭なまま収められているということだろう。各章が「解説」「テーマ」「セクション」「コラム」と分類された論説文群から成るPart1の構造は特に複雑で、読んでいて混乱する。各カテゴリーの役割を明確にして企画・編集し、それぞれがどのような目的で書かれ構成されているのかがカタログ冒頭で整理して示してあれば、多種多様な論説文の多声性を損うことなく、立体的で読みやすく、かつ、参照に適した一冊の書物になるのではないだろうか。
以上、述べてきたように、本展およびカタログには問題点はあれ、それは、裏を返せば、取り組むべき課題が多い肥沃な領域であるということである。現時点では、少なくとも、見る者の従来的なキュビスム観にざらりとした違和感を波立たせただけでも、意義深い企画であったと言えるだろう。本展とカタログが、アジアの近代美術を、西洋の近代美術同様、近代美術のヴァリアントとしてとらえ、西洋との関係だけでなく、アジア内の関係性も踏まえた風通しの良い空間の中で考察していく試みへと開かれた窓の一つであることは間違いない。今後の非西洋圏の近代美術を射程に入れた近代美術全般の見直しの動向に注目していきたい。


1 ラワンチャイクン寿子 「南洋1950-65 ―シンガポール美術への道― 」福岡アジア美術館、ラワンチャイクン寿子編『南洋1950一65 ―シンガポール美術への道―』近代美術シリーズⅡ、福岡アジア美術館 2002年。
2 ヴァルター・ベンヤミン(浅井健二郎訳編) 「翻訳者の使命」 『ベンヤミン・コレクション2』 ちくま学芸文庫 1996年、396-398頁。
3 ちなみに、「近代(性)」についても同じような解釈が可能である。「近代(性)」は、その発祥の地西欧においても従来とは異質で破壊的な新しい現象として経験された。Marshall Berman. All That is Solid Melts into Air: The Experience of Modernity. New Edition with a new preface. NY: Penguin Books, 1988 (original edition published in 1982).
4 例えば、キュビスムを「ヨーロッパ的でも非ヨーロッパ的でもない第三の何か」(72頁)と捉える松本透の「キュビスムにおける身体」。今回の企画を、従来の美術史の言説によって固定化された「キュビスム的なもの」そのものの問い直す試み(20頁)と見る林道郎の「オン・ザ・テーブル」。キュビスム定義の曖昧さを指摘しつつ、まさにベンヤミンの翻訳論を援用しながら、アジアにおけるキュビスムを「「類似性とは別のかたち」で生産的な変容を遂げたキュビスム」(15頁)と評価する建畠哲の「アジアのキュビスム」。
5 福岡の第二回、第三回のアジア美術展の韓国巡回は数少ない例外である(「関連文献」参照)。
6 ニール・コックス(田中正之訳) 『キュビズム』(岩波世界の美術) 岩波書店 2003年 (原本:Cox, Neil. Cubism. London: Phaidon, 2000.)

<関連文献>(注で引用した文献を除く) 
・後小路雅弘 監修 『モンゴル近代絵画展』 産経新聞社 2002年
・岸清香 「美術館が「アジア」と出会うとき-福岡アジア美術館の設立と展開-」 平野健一郎監修 『戦後日本の国際文化交流』所収 勁草書房 2005年
・静岡県立美術館 編 『東アジア/絵画の近代-油絵の誕生とその展開』 静岡県立美術館 1999年

[展覧会およびカタログ・データ]
「アジアのキュビスム ― 境界なき対話」展
東京国立近代美術館(2005年8月9日~10月2日)、徳壽宮美術館(韓国国立現代美術館文館、11月11日~2006年1月30日)、シンガポール美術館(2月18日~4月9日)。企画・運営は東京国立近代美術館・韓国国立現代美術館・シンガポール美術館・国際交流基金。カタログは、東京国立近代美術館(三輪健仁、鈴木勝雄、松本透)・国際交流基金(古市保子)編輯、東京国立近代美術館・国際交流基金発行、 2005年、総頁数212。

ベルリンと東京―都市と文化の遠近法(88号掲載) 曽我 晶子

曽我 晶子
執筆時 : 東大比較文学会会員
雑誌情報 : 『比較文學研究』88号、2006年10月、166~170ページ


「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展と銘打った展覧会が開催されることを最初に知ったのは、たまたま出掛けた六本木ヒルズで広告チラシを発見した時だ。それは、バウハウス調の色合いとタイポグラフィーを模したような技法が盛りこまれた手の込んだグラフィックデザインで、一般的な展覧会チラシと比べて一際眼を惹くものだった。実際に手に取ってみてみると、随分ぺらぺらした、新聞紙のような灰色がかったA4サイズの紙に印刷されていた。裏側も同じようなデザインになっていて、タイトルと会期、場所以外の情報がほとんど見当たらず、当惑させられた。一見しただけでは、会場が「森美術館」となっていなければ、そもそも美術の展覧会を告知したものかどうかもわからない。ドイツ工作連盟の写真展のポスターや、岸田劉生の作品が素材に使われていたことと、戦前のドイツで人気を博していたグラフ紙を真似したような文字や写真の組み方から、二十世紀の日独間における文化的な交流や、東京とベルリンで花開いた都市文化の影響関係をテーマにしているらしいという推測はできた。
とはいえ、ここに素材として使われている作品を知らなければ、タイトルだけからでは、ほとんど何もわからないのではないだろうか。実はこのチラシが二つ折りになっていて、その内側に、最初に私がこのチラシをさんざんためつすがめつして探したもの、すなわち出品作品のカラー写真や、展覧会のテーマ構成などについての詳しい解説が印刷されていたことに気づいたのは、ずっと後になってから、展覧会を見てしまった後だった。
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展は、一八八〇年から現代までの一二五年間における、ベルリンと東京の文化的交流の歴史を、時系列的にたどるものだった。時代やテーマごとに十一の展示セクションから構成され、美術をはじめ建築や写真、工芸、演劇といったさまざまなジャンルを網羅した約五百点もの作品を集めた、きわめて意欲的な試みである。六月からは、内容を一部変更して、ベルリンの新国立美術館への巡回が予定されており、この二つの都市の文化交流の歴史が双方の立場から顧みられることになる。
この不可解なチラシにも関わらず、タイトルに「ベルリン」とあるだけで、筆者は過大な期待を抱いていた。十九世紀から二十世紀の転換期からナチスが台頭するまで、映画や新聞といったメディアの発信地であり、アヴァンギャルド運動の代表的な実験場でもあったベルリン。第二次大戦後は、東西区域に分断されるという数奇な運命にさらされたベルリン。また壁崩壊後は、旧東ベルリン地区に国内外から多くの若いアーティストが集まり、パリともニューヨークとも違う、独特のアート・シーンを作り出したベルリン。複雑な歴史を背負ったこの都市の文化が、東京との関わり合いのなかでどのように描き出されるのかと、興味津々であった。
これだけの長い期間を対象としているものの、同展のハイライトは、やはり二十世紀のはじめから一九三〇年代前半にナチスが台頭するまでにおける、いわゆる「アヴァンギャルド」の時代だ。特に絵画の領域では、両国における伝統的な美術を脱却しようとする試みにおいて、それぞれがダイナミックに、互いに影響を与え合ったということが、この時代の造形作品のなかにはっきりと見て取ることができる。それは単に、着物を着た日本女性や和傘など異国趣味を喚起する日本のモチーフが、当時の絵画作品に取り入れられているというだけではない。ベルリンの美術学校で教鞭を取っていたエーミール・オルリクが、日本に長期滞在して木版画の技法を習得し、帰国後に弟子にその技法を伝授した。また、表現主義のグループ「ブリュッケ」や「青騎士」の画家たちが、従来のヨーロッパの表現様式を否定するなかで、日本の木版画に注目、その「原始的な」表現がより「本質」を表すものであると考え、自らの作品にその技法を取り入れていった。こうした芸術のアヴァンギャルド運動を牽引していたヘルヴァルト・ヴァルデンが、作品発表の場として一九一二年に開いたのがベルリンの画廊「シュトゥルム」である。
「シュトゥルム」で発表された表現主義の木版画作品が、一九一四年に、ドイツに留学していた山田耕筰らの尽力によって東京でも紹介されたことは、ドイツでも日本でもあまり知られていない。「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展の二番目のセクションでは、このとき日比谷画廊で開かれた「シュトゥルム木版画展」を再現し、そこから「逆輸入」式に影響を受けた恩地孝四郎や、渡仏前の長谷川潔の木版画をともに展示しており、そこにインスピレーションの交換があったことを明確に見て取ることができる。
船や鉄道しか交通手段がなかったこの時代、ベルリンと東京の距離は、今よりはるかに遠かったに違い。移動に何ヶ月もかかるほど遠く離れた土地でありながら、両都市が、相互に豊かな交流関係を築いていたという事実と、革新のために異文化を積極的に取り入れようとした芸術家の熱意には、素直に驚かされる。ベルリン側からみても、キルヒナーやペヒシュタイン、マルクといった馴染み深い作家の作品が、遠い極東の国、日本のアーティストに、同時代に影響を及ぼしていたということは、新鮮な発見となるのではないか。その他にも、ダダの作品と村山知義のマヴォや、ジョージ・グロスの強烈な社会風刺画と柳瀬正夢の共産主義的なポスターなど、様式の類似が視覚的にはっきりと認識できるものが一緒に展示されている。ドイツでおなじみの作品と、よく似た作品が日本でほぼ同時代に生まれていたということが、とてもわかりやすい構成になっているので、この展覧会が、巡回先のベルリンでどのような反響を呼ぶのか、きわめて興味深い。
もうひとつ、ドイツから日本に巡回してきた戦前の重要な展覧会「独逸国際移動写真展」(一九三一年)を扱ったセクションもまた、同展の大きな見どころであった。二十世紀に入ってから、写真や映画という映像メディアが新しい表現手段として急速に普及したが、一九二〇年代になると、そのさらなる可能性を追求しようとする動きが出てきた。この傾向は、そのリーダー的な存在であったラースロー・モホイ=ナジの言葉を借りて「ニュー・ヴィジョン(Das neue Sehen)」と呼ばれるが、その集大成とも言えるのが、ドイツ工作連盟が主催した展覧会「映画と写真」("FIFO")である。ここには、都市や工場などのドキュメントとしてのルポルタージュ写真や、学術研究のための写真、マン=レイらによる実験的な作品、ジョン・ハートフィールドなどのフォト・モンタージュまで、約千二百点が、一堂に会した。あらゆるジャンルの写真を見せることで、芸術、報道、広告など、写真がさまざまな領域で応用可能であることを示したのである。
FIFOは、一九二九年のシュツットガルトを皮切りに、ヨーロッパ各地を巡回した。岡田桑三はベルリンでこれを見て、村山知義とともに日本への招致を実現し、「独逸国際移動写真展」として、東京および大阪で約千点にのぼる作品が展示された。今回の展覧会では、当時の展覧会に出品された写真と、同時代の日本の作家、特に雑誌『光画』で活躍した中山岩太らの作品とを並置することで、FIFOが日本にもたらしたインパクトを伝えている。
ここで残念なのは、今回の展示では、「ニュー・ヴィジョン」の写真の芸術作品としての側面しか紹介されず、報道写真としての側面にはほとんど光が当たっていなかったことである。対象をカメラという冷徹な眼で即物的に捉えようとした「ニュー・ヴィジョン」の写真は、写真展や写真集で発表されただけではなく、グラフ紙などに掲載されて、一般大衆に何かを伝える報道という役割をも担っていたところに、その最大の特徴のひとつがある。当時日本では「ドイツ新興写真」と呼ばれたこれらの写真は、芸術と記録という本来は相容れがたい二つの要素を同時に持ち合わせることになった。木村伊兵衛など、後にルポルタージュ写真家として活躍する写真家の多くは「独逸国際移動写真展」を見ており、「ニュー・ヴィジョン」の写真の報道的性質が、日本の写真のみならず、写真を使った報道にもたらした影響は無視できない。
都市文化をテーマに掲げていながら、同展が、映画と並んで大衆の支持を得ていたグラフ紙というメディアをほとんど扱っていなかったのは惜しまれる。グラフ紙は、ベルリンのウルシュタイン社が発行していた『ベルリン画報』(“Berliner Illustrirte Zeitung”)に代表される、タブロイド判サイズの週刊新聞で、一九二〇年代から、多数の写真が掲載されるようになっていた。最有力の十五紙の部数を合計すると、一九三〇年には五百三十万部も発行され、テレビのない時代においては、大衆の貴重な情報源であった。この時代のグラフ紙の市場における大成功はドイツ特有の現象であるが、これらのグラフ紙は国際的に影響を及ぼし、ジャーナリズム史に大きな足跡を残したため、近代フォト・ジャーナリズムの起源とされている。同展が写真を大きく取り上げながら、報道としての写真への視点が欠けていたのは惜しい。
日本で「独逸国際移動写真展」が開かれた一九三一年は、ミュンヘン在住の名取洋之助の撮影した写真が、初めてグラフ紙に掲載された年でもあった。翌年、ウルシュタイン社の特派員となった名取は拠点をベルリンに移し、報道写真家としての活躍を本格的に開始する。日本の家屋や生活習慣などが、名取の撮影した写真とともに、ドイツ各地のグラフ紙で紹介された。一九三四年に帰国した名取は、日本工房を設立、カメラマンやデザイナーを育て、日本のフォト・ジャーナリズムとグラフィックデザインの発展に大きく寄与した。同展では、日本工房の海外向け宣伝雑誌『NIPPON』と、名取が撮影したベルリンオリンピックの写真が、ファシズムと戦争の時代を扱ったセクションで、戦争プロパガンダの例として紹介されてはいた。しかし、名取がドイツと日本を実際に行ったり来たりしながら、日本にドイツ流ジャーナリズムの最新ノウハウを伝えてその後の日本のジャーナリズムに貢献したことや、逆にドイツでは写真を使って日本の生活や文化を紹介したことを考えると、それではとても充分とはいえない。ベルリンの観客にも話題を提供しそうなテーマにもかかわらず、同展で取り上げられなかったのは残念である。
戦後の時代に関しては、戦前と比べるとぐっと展示のヴォリュームが少なくなり、一九四五年から五〇年代まで、六〇年代、壁崩壊後に、それぞれ一セクションずつが割り当てられていた。この辺りになると、ドイツと日本の文化交流は、特定のイベントや様式の変遷をたどるだけで再構成できるような単純なものではない。相互の影響関係も、戦前とは違い、作品の表面的な現象から見出せるようなものではなくなってしまっている。東京とベルリンという二都市や、その「文化交流」という切り口が、すでにここでは無効になってしまっているように思われた。その理由として、いずれにとっても、アメリカが政治的にも文化的にも絶対的に大きな存在であったことや、ドイツが東西に分裂してしまったことはもちろんあるだろう。さらに、技術の発達によって、交通手段も通信手段も大きく変化を遂げ、人や物の移動が比較にならないほど多くなって、「文化交流」と一言でいっても、ひとつひとつたどっていけるようなわかりやすい現象として現れるものではなくなってしまったこともあるだろう。
壁崩壊後を扱った「ベルリンの今」と題された最後のセクションで、現代のベルリンのアーティストたちの作品を見ながら、それぞれに興味をそそられながらも、なぜこれらの作品が選ばれてここにあるのか、という疑問への回答を見出すことはできなかった。ビデオインスタレーションや壁画、写真など、作品のヴァリエーションは取り揃えられていたが、これらが「ベルリンの今」を知るよすがとなるとは思えなかった。
実は、現代を扱ったこの最後のセクションでは、東京とベルリンで、展示内容がそっくり異なるという。カタログによれば、ベルリン展では「日本の漫画、ニューメディア、そして現代アートを取り巻く都市環境を取り上げ、東京のコンテンポラリーなアート・シーンをより重点的に紹介する」らしい。いったいどのように「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」が紹介されるのか、非常に気になるところである。せめてカタログ上だけでも、東京展とベルリン展の双方の内容を収録してあれば、それぞれがどのように見られているかを互いに垣間見ることができ、交流の新たな次元を切り拓くきっかけとなったのではないか。
そして、ぜひカタログはドイツ語と日本語のバイリンガルであって欲しかった。さらに欲を言えば、ベルリンと東京で販売されるカタログがまったく同一のものであれば、この展覧会はもっとパラレルでおもしろいものになるのではなかろうか。
展覧会を鑑賞したあと、超高層タワー五十二階の展望台からスモッグに霞んだ東京の街を眺めながら、ベルリンで見た、古くてくすんだ感じのカフェでの朗読会や、アーティストの卵が集まる旧東ベルリン地区のアパートのキッチュな中庭などのことを思い出した。これらは、少なくとも訪問者の眼には、アーティストや作家たちがカフェにたむろして日がな芸術談義に打ち興じていたという、戦前の伝説的なベルリンと、あまり違和感なくつながっているように見えたものだ。しばらくして、ベルリン展の最後のセクションの内容がとても気になるのは、東京にいながらにして「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」なるものが、まったくイメージできないからだということに思い至った。東京にいて「ベルリン」というキーワードに反応してしまうのは、ごく身近にアート・シーンらしきものが体験できた街へのノスタルジーのためかもしれない。グローバルな現代社会にあって、ベルリンと東京は、百年前よりもずっと遠くなっているような気がしてならなかった。そして、同展のチラシをはじめて見たときと同様の不可解な印象が、強く残った。

[展覧会およびカタログ・データ]
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展
六本木ヒルズ森タワー53階・森美術館(二〇〇六年一月二十八日~二〇〇六年五月七日)、ベルリン新国立美術館(二〇〇六年六月八日~十月三日)。カタログは森美術館編輯・発行、二〇〇六年、総頁数三百八十八。

2007年8月 3日

「マンダラ展――チベット・ネパールの仏たち」(89号掲載)手島 崇裕

手島 崇裕
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』89号、2007年5月、205~209ページ


 「マンダラ展――チベット・ネパールの仏たち」の会場で、まず「出品目録」のコピーを手にとった。出品物の製作年代に目がとまった。ほぼ全て二十世紀で、全百三十四点のうち十九世紀に遡るものはわずか一例(日本の常楽寺・両界マンダラ)である。古美術品的価値をまとい、数百年の歴史を経た掛け値なしの優品として陳列され、人だかりの山を築くような「宝物」はない。埼玉県立近代美術館で開催された本展は、国立民族学博物館が二〇〇三年に開催した同名展覧会の巡回展であり、同博物館所蔵の資料が中心となるのだが、それでも美術史的・宗教史的価値の定まった何らかのものを、そのまま持ち込んだり、写真パネルを用いたりして、展示文脈に組み込むことはできたはずだ。それを全面的に排した姿勢は、従来型の仏教関連展覧会に見る国内外マンダラの位置づけや展示方法と一線を画す。
 マンダラ(曼荼羅、まんだら)という日本語からは、複雑な諸要素が絡み合い、森羅万象を包み込むようなカオス的な匂いが感じられる。宗教画としてのマンダラも、同じく神秘のヴェールに覆われたものと見てしまう。だが、専門性と学際化のバランスを意識した研究活動を精力的に進めている仏教学者、立川武蔵氏の企画・監修になる本展覧会を通じ、右の日本的マンダラ観は相対化される。鑑賞し愛でるのではなく科学的に解体・分析し、観者とともに構造や機能を探ることによって、「マンダラとは何か」を解明し、さらにはマンダラの現代的意義を探ろうとするもくろみが本展にはあるのだ。
 マンダラとは何か。行論の便宜上、先に触れておこう。立川氏を筆頭とする本展カタログの執筆者によると、マンダラは「必要不可欠な要素のみから構成されていて、しかもそれ単独で存在する、閉じられた世界」(正木晃氏、一〇七頁、以下頁数は全てカタログのもの)で、「秩序化された空間であり、それゆえ「コスモス」とよぶことができる」(森雅秀氏、六一頁)。日本的マンダラ観とは相容れない定義がなされる。このようなマンダラは、「世界(宇宙)の縮図であり、同時に自己の心の図」(立川氏、一一頁)であり、修行者はマンダラ図を眼前に、「「仏たちの世界」への合一にかける」(同氏、同頁)。また後期密教のマンダラは、行者が悟りを目指し「性的ヨーガをおこなう場所」(野口圭也氏、八一頁)ともなる。つまりマンダラの、聖なる世界(宇宙)を創造する設計図となり、その世界と一体化する舞台装置となる性質こそが、密教・仏教という宗教的枠組みを越える可能性を持つことになるのだろう。だからこそ、例えば「自然と人間を含む世界が生命体であるという側面を重視し、その生命活動の目的をも視野に入れた「あたらしい自然学」(中略)の誕生に対して、マンダラは重要なヒント」(立川氏、一四頁)になるのだと思われる。
 展覧会場は大別すると二部構成である。第一部「仏教のパンテオン」では、マンダラ画の内外にまします仏・菩薩・神などの像やタンカ(仏画)を大量展示し、各々の宗教的属性を「おさらい」していく。仏像展の愛好者にとっても、仏カテゴリーに入る「ヘールカ」の仏たちが妃を抱き(二〇~二五頁)、「女神」であるヨーギニーが頭蓋骨の杯で血を飲まんとする姿(三七頁)は、まず異様に感じられるだろう。だが、このなやましさやおどろおどろしさも、簡潔なパネル解説とともに仏神一体一体と真正面から向き合い、裏面まで眺め回すうちに次第に消え去っていく。彼らには彼らなりの役割やご利益があるのだ。
 しかし一方で、「出品目録」を見た際から気になっていたことでもあるが、二十世紀生まれの神仏たちの背後に見え隠れする「ふるさと」、チベット仏教の全体像について情報が欲しいとの思いが次第に強くなった。「出品目録」によると、全出品物のうち、チベット(中華人民共和国チベット自治区)収集のものはわずか十二例しかない。かたやネパールは六十例。また、モンゴル十五、ブータン十三、そして仏教は十三世紀に絶えたはずのインドからは二十六品も収集されている。冷静に考えてみれば、モンゴルがチベット仏教に果たした歴史的役割は大きい。ブータンの国教はチベット仏教の一派だ。インドは、チベット人仏教徒たちの亡命先の一つだからか――また帰宅して調べると、有名なチベット仏教寺院アルチ寺のあるラダック地方はインド領だった。つまり収集地の分散傾向は、チベット仏教の過去―現在における広がりを示しているのだ。さらに、一面でチベット仏教圏内にあるネパールがややこしい。カトマンドゥ盆地を中心に、原住民族ネワール人を担い手とした小勢力だが、チベット仏教とは明確に区別されるネワール仏教――カースト制度を受容しつつもサンスクリット語の仏典を今に伝える在家的仏教――が息づいている。すると、ネパールで製作・収集された展示品は、ネワール仏教のものか、それともチベット仏教のものか。さらなる疑問がわく。
 展示会場には、チベット仏教(やネワール仏教)の歴史と今をそれなりに概説する地図やボードが見当たらなかった。パネルや「出品目録」にモンゴルやインドという文字を見つけるたび、戸惑いを覚える観客がいなかっただろうか。「チベット・ネパールの仏たち」という副題がしっかり像を結ぶような概説パネルが一つあるとよかった。
 ついで第二部「仏たちの住む宮殿」へ足を踏み入れる。はじめの展示空間一区画を使い、日本でもおなじみ金剛界マンダラの「宮殿」内部を立体的に「再現」する試みがなされていた。大日如来を中央に、天井からワイヤーで仏尊の画像が吊るされる。金剛界マンダラの中を、まるで瞑想中の行者になったかのように漂う感覚。「「仏たちの世界」への合一」を軽く疑似体験し、頭を切り換えることができた。
 会場には、須弥山マンダラ(一二~一三頁)という三次元マンダラを含め、オーソドックスな金剛界マンダラや珍しいブッダ・マンダラ(六八頁)など様々なマンダラが展示される。さらに、本来菩薩である文殊が中尊という点でも特徴的な法界語自在マンダラを「解体」し、登場する仏神を全て数え上げるという試みもある。神秘のヴェールはどこまでもはがされていく。
 面白かったのは、空海や天台入唐僧請来の系譜を引く両部曼荼羅を紹介した日本密教ブースが、オプション・コースとも看做しうる奥まった一区画にまとまっていた点である。これが埼玉県立近代美術館のみの粋な試みなのかは定かではないが、日本マンダラに必要以上の価値を置かないということを知らしめる心憎い展示構成により、複数の視点を強要され混乱することなどなく、一貫した目線で見学を進めることができた。
 見学路の最後に用意されていた「体験コーナー」では、立体空間の平面的投影がマンダラであることを説明する模型が秀逸であった(六一頁の図五を模型化)。上から覗き込むと、おなじみのマンダラ画に見える。ここで多少の不満をいえば、マンダラのある種の立体感覚はこの模型で捉えられたものの、修行者が瞑想のはて思い描くパンテオンの内部構造や主尊―各尊の配置関係については、金剛界マンダラ「再現」にはじまる第二部の展示を見終えた後でも容易く想像することはできない。イメージ形成に役立つだろう立体マンダラ(六五頁)やペーパークラフトマンダラ(七八頁)が巡回してこなかったことが、残念でならなかった。
 また、日本のマンダラを見慣れていると意外にも感じられるが、会場で見るマンダラは円形である。神々の宮殿を囲む外円は、いわば宇宙の外枠であり、インド的宇宙観は閉じている。他方日本の金剛界マンダラには外円がない。これは、空海の時代より後にインド密教の宇宙観が展開したからか、あるいはマンダラが中国仏教へ導入される過程で外枠が省略された可能性などが考えられよう。つまり、マンダラの性質や世界観は、背景となる歴史または文化の中で変容と発展を続けるものであることがわかる。この点からも、マンダラに現代的意義を問うという見方は妥当性を持つといえる。線画マンダラに色を塗ることで自らの内面を探る「塗り絵マンダラ」が、同コーナーにて人気を博していた。「密教修行におけるマンダラの効用のひとつは、いったん意図的に解体された心身を、再統合するための、いわば霊的な装置として機能させること」(一一〇頁)とする正木氏によれば、マンダラには「時代と地域を超えて、心身状況の改善に役立つ可能性」(同頁)がある。右の問いの一環としての、ユニークな試みである。
 さて、本展のカタログに目を転じよう。二頁によれば、同書は正式には国立民族学博物館で二〇〇三年に開催された同名展覧会の「解説書」である。中身は、展示品全ての写真や個別情報を網羅するわけではない。また、「資料データ」が提供する情報も十分とはいいがたい。だが、出品物は古美術品でも純粋な芸術作品でもなかった。極端にいえばカトマンドゥでお土産に買う仏像やタンカ、マンダラと性格はあまり変わらないわけである。であるから、むしろ一般的図録のように全展示品を網羅詳解したところで、展覧会の意義や価値を「解説」することにはならないのだ。
 その中身は、前置きに加え、「Ⅰマンダラの仏たち」、「Ⅱマンダラとは何か」、「Ⅲマンダラの構造」、「Ⅳマンダラの儀礼」、「Ⅴマンダラと現代」の五部構成をとり、計十編の論文が収載される。複数の著者による論文の集合体でありながら、通読していくことで、展覧会を追体験しつつ、その目指すところを読者に伝えんとする構成である。Ⅰは展示第一部とも対応し、マンダラの中で出会う仏神の図版付き概説ともなる。展示第二部に対応するⅡ以降も、出品物の写真が各論にて挿入図の役割を果たすなど展覧会と有機的にリンクし、「見応え」のあるマンダラ概説が並んだ(1)。
 感想としては、Ⅳがやや物足りない。会場では、マンダラを用いた信仰の実情、特にマンダラと対峙する人的要素への配慮が不足していると感じた。その補足はⅣでなされるべきだろう。ただし、伊藤真樹子氏「法界語自在マンダラの儀礼」が紹介する、二〇〇一年七月~八月に執り行われた「ダルマダートゥ・ヴラタ」というマンダラ供養儀礼は、僧侶カーストの指導を伴うとはいえ、ネワール仏教の在家信者主体の儀礼である。また、Ⅳにはチベット仏教に関する論考はそもそも収載されない。だが、Ⅳ以外に含まれる論考には、インド仏教や両仏教で行われたマンダラを用いての儀式や実践が、文献などに基づき紹介されている箇所がいくつか見られる。両仏教の現状調査には限界があるだろうから、やはり文献・史料からの復元といった手法でも構わない。「マンダラの儀礼」の次元にとどまらず、できればマンダラを観想・作製し、自ら瞑想状態に入り、聖なる世界との「合一にかけ」る行者の修行レベルまで掘り下げた、マンダラと人間との格闘の実相に迫る専論が欲しかった。
 ともあれ、私はこの「解説書」は、適度な専門性を保ちつつヴィジュアル面も充実した各論の内容、分担執筆のため議論の方向性に偏りがないこと、そして何より見やすい大きさに薄さと軽さ、といった点で、これまでにないマンダラ入門書と看做しうると考えている(2)。一点だけ、展覧会・カタログ全体の参考文献リストがないのが残念である。「解説書」としての性格上、文献リストも網羅的なものより簡単なものがいい(3)。「マンダラとは何か」を探究する姿勢が、本展を通じ我々観者に伝わったとしよう。そうしたとき、書店や図書館の書棚には関連書籍が玉石混交して並んでいる。マンダラやチベット仏教は現代にも息づいているがゆえに、ある種の危険性がそこには潜んでいよう。マンダラとその文化的背景について、客観的目線を保ちつつ自主勉強するにふさわしい道標を我々に示すことが必要ではなかったか。
 繰り返すが、画期的かつ魅惑的な展覧会であった。マンダラの科学的解剖が、チベット仏教圏以外に唯一インド以来の密教を今に伝え、かつ異なる方向性に「マンダラ」を展開させてきた日本において行われたことの意義も、改めて考えてみなければならない。いずれにせよ、本展が、今後マンダラを扱うことになる諸展覧会の一つの指標として無視できない存在となったことは間違いなかろう。
 なお最後に、私の能力不足により、美術館(埼玉県立美術館)で本展が催された意義に言及することができなかった点をお詫びしたい。同館の大越久子氏によると、「マンダラのような宇宙観をイメージする力は、万物の神秘を探ろうとする芸術の本質、ひいては人間の生き方とも結びついて」おり、「マンダラには、同時代の文化として日常生活(あるいは美術館)に斬りこみ、人々の心に響く造形の価値とはなにかという基本的な問いを突きつける強さがある」(4)。このような目線から、私も今一度カタログを愉しむことにしたい。


(1)一方、一九九二年にチューリッヒ大学民族学博物館で開催されたMandala-Der Heilige Kreis im tantrischen Buddhismus は本マンダラ展と似た性格を持つ展覧会だったと思われるが、開催にあわせ刊行されたMartin Brauen, Das mandala: Der Heilige Kreis im tantrischen Buddhismus,koln:DuMont,1992は、単独著者の執筆になり、かつマンダラの機能や構造、意味を、カーラチャクラ・マンダラ一種に絞って解き明かそうとする。つまり今回のマンダラ展や「解説書」と好対照をなす性格を持ち、対比する価値がある。原著より縮版され、写真など多少略されているものの、英訳をはさみ日本語にも訳された(マルティン・ブラウエン『図説 曼荼羅大全――チベット仏教の神秘』(森雅秀訳、東洋書林、二〇〇二年))。
(2)マンダラ関連書籍は昨今多数刊行されている。必読文献を一冊挙げるなら、多少専門的ではあるが、田中公明『曼荼羅イコノロジー』(平河出版社、一九八七年)となろう。
(3)近年の関連書籍を例にとると、正木晃『知の教科書 密教』(講談社、二〇〇四年)第五章のように、簡単な解説付きで紹介するのがよいだろう。
(4)引用は、前者は『埼玉県立近代美術館ニュース[ソカロ]』二〇〇六年六月―七月号、後者は『同右』二〇〇六年八月―九月号。

[展覧会およびカタログ・データ]
「マンダラ展――チベット・ネパールの仏たち」
国立民族学博物館(二〇〇三年三月十三日~六月十七日)、名古屋市博物館(二〇〇四年四月十日~七月四日)、埼玉県立近代美術館(二〇〇六年七月八日~九月二十四日)。カタログは国立民族学博物館編輯、財団法人千里文化財団発行、二〇〇三年、総頁数百十一。

2008年2月19日

『イメージの迷宮に棲む 柄澤斎展』――「一冊の本」としての展覧会、そして「一冊の本」の記憶としての展覧会カタログ(90号掲載)安藤智子

安藤智子
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』90号、2007年10月、146~152ページ

木口木版画の第一人者である柄澤斎氏の1971年から現在に至るまでの回顧展が、2006年7月から栃木県立美術館で、続いて10月から鎌倉の神奈川近代美術館で開かれた。栃木では「宙空の輪舞(ロンド)」と、鎌倉では「イメージの迷宮に棲む」とそれぞれの展覧会にタイトルが付けられていた。

柄澤氏は、これまでの創作活動の集大成である、この展覧会開催にあたって、雑誌のインタビューのなかで次ぎのように語っている。
「とにかく一冊の本でありたい。最終的に柄澤斎は本を作っていたんだと。つまり、いろんな形のものを、読めるような本、ストーリーを辿れるような本として、作っていたと最終的に見られればいいわけで、だから、今度の展覧会というのも回顧展という、そういう意味がすごくあるわけです。一冊の本としての美術展というか個展というかな」(1)
 つまり柄澤氏は、私たちの視覚に訴える「美術」の展覧会を、人が手にしてページをめくりながら、ストーリーを読み解き、それを味わっていく「書物」や「本」に重ね合わせるのだ。このような作家のコンセプトは、キュレーターを介し、展覧会に、そして展覧会カタログにどのように現れ得るのであろうか。
 そこで私は、展覧会が「一冊の本」であるという意味を重層的に捉えることを試みながら、「一冊の本」の記憶としての展覧会カタログを語りたいと思う。

柄澤斎氏は、何よりもまず「木口木版画」の作家である。「木口木版画」とは、通常の浮世絵などに代表される板目木版画とは異なり、目が詰まっていて硬質な黄楊や椿の木を横に輪切りにして版木とし、鋭利な小型の彫刻刀、ビュランによって細密な線を彫り込む版画の技法である。18世紀のイギリスにおいて実用化され、19世紀にはヨーロッパにおいて活字と共に印刷することが可能なために、書物の挿絵として愛好されるが、その後写真製版にその役割をとって代わられる。例えば展示されていた肖像画の一枚を見ると、ガラスが砕け散り、その無数の破片が舞う、一瞬の煌きを放つ時空に、何かを無表情で見つめるボードレールがいる。広い額、ガラス玉のような瞳、真一文字に結ばれた薄い唇が特徴的である。背景や陰影、そして髪の毛、顔面の皮膚、着衣、ガラスの破片の断面には、ルーペを必要とするほどの無数の極細の線刻が覆いつくしている。硬い黄楊の版木を細く彫り進めた線刻から、静的な画面に、作家の身体運動のリズムと息遣いが伝わってくる。その小さな紙面には、いつも目にするボードレールの面相というよりも、その奥に潜む破滅的で鋭利な感性が凝縮されている。
展示されている作品は、木口木版画、リーヴル・オブジェと呼ばれるコラージュによるオブジェ、水彩・素描画、墨の作品、そして本の装丁、装画、挿絵という多岐に渡るが、柄澤氏の仕事の基調にあるのは木口木版画である。私に限らず、柄澤氏の版画と遭遇した人は誰しも、その鮮烈でかつ豊潤なイメージと作家のヴィジョンの大きさに圧倒されたのではないだろうか。わずか10~20センチ四方の木版画が創造する漆黒の世界は、広大無限の宇宙、生命の神秘、叡智の蓄積、死との親密さと死への畏怖というような、あらゆるものを内包し、開示している。

柄澤氏は、1870年の日和崎尊夫氏の個展で木口木版画と出会い、これを自身の表現手段であると決め、日和崎氏を師として制作を始めている。師は陰刻(彫られた線が白く浮き上がる)を用いたが、柄澤氏はそれを踏襲せず、木版画の従来の方法である陽刻(彫り残された凸状の線が黒く刷られる)を選択している。
キリスト教の宗教観を映した『贖罪領』、暗闇で「メメント・モリ(死を想え)」と女性が密やかにささやく版画から始まり、一篇の抒情詩を織り成す『死と変容』のシリーズ、先のボードレールやランボー、ゴヤやブレダンなど西洋の詩人、画家、音楽家、そして中国や日本の歴史上の人物を表した肖像画のシリーズなどの柄澤氏の木版画は、文学から題材を借用している、また文学の色彩を帯びているという意味ではなく、「文学」と根源的に結ばれていることによって「文学的」である。次のような柄澤氏の言説をからも、制作過程における文学との密接な関係がうかがえる。
「言葉が絵に導かれ、絵が言葉に触発されるスリリングな制作過程は、私達に知への新たな開示をもたらしてくれて倦むことはない。精錬された紙質と印刷技術、念入りに仕上げられた造本の上で個々の仕事が一体となる時、詩は眼で見る版画であり、版画は眼で読む詩でもある。」(2)
このような版画における「言葉と視覚の関係」についての明確な指針は、「他の美術作品とは違い、完成された画面以前に翻訳されるべき世界のヴィジョンがある」(3)と断言しているように、版画の「翻訳」機能 という柄澤氏の考え方にも通底している。そもそも木口木版画の出自は、事件や出来事を伝える新聞の挿絵や、博物図鑑で解説される挿図であったのだが、現代においてその状況は様変わりをしていることに、柄澤氏は気付いていて、
「版画は版画というひとつの文化史的体系であって、触覚にかかわる形式のもので、美術ともリンクするけど、美術でない部分もたっぷりもっている。だけどそういうところにみんな意識がいかない」(4)
と「版画」について述べている。先に挙げた「死と変容」の木口木版画のシリーズについて、カタログの解説では、「初期からのテーマである遥かな宇宙空間への憧れ、人間の内面の欲望と葛藤、死の誘惑、そうしたいっさいを押し流す洪水などのイメージを連作によって展開させ、一篇の叙事詩のような豊潤なストーリーに結実させたものである」(5)とある。西洋伝統の根幹をなすキリスト教のテーマから自身の想像力を飛翔させ、深遠で広大なイメージを作り出す柄澤氏の創作は、例えばシュルレアリスムの作家たちが、イメージの突発的な現出や、全く異質なモチーフの並置によってわれわれの感覚を揺さぶる手法とは違っていて、まさしく文化史的体系と呼ぶべき叡智と思索の蓄積を濃厚に打ち出している。それらの文化史的体系のヴィジョンが結晶化した世界を私たちは柄澤氏の版画に見ているのだ。「文化史的体系」の翻訳は、肖像画のシリーズにおいても遺憾なく披露されているのであり、われわれが仰ぎ見る巨星たちは柄澤氏自身が理解し解釈した、まさしく「翻訳」されたコンテクストによって私たちに語られるのである。私は柄澤氏が芸術家たちを捉える、その知識の深さと洞察力、そしてそこから立ち上がる表現力に感じ入った。

このように「文化史的体系」である版画を一枚ずつ構成したのが、「一冊の本」としての展覧会である。私は、鎌倉での展覧会を見る機会を得たのであるが、柄澤氏の数多く作品を選抜し構成するキュレーターの水沢氏は、本の編集者であり、ストーリーを組み立てて、鑑賞者を展示空間に誘い込んでいる。私は、まさに展覧会のタイトルのとおり、「イメージの迷宮」に掬い取られたわけである。
そして栃木と鎌倉の会場での二つの展示は、同じ作品を扱っていても、違ったタイトルが付されているように、単なる巡回展ではなく、全く別の企図を持つ単独の展覧会として成立していることは興味深い。各々の展覧会の企画者のカタログ巻頭論文にも、展覧会の持つ意義、及び作品へのアプローチの仕方の違いがわかるであろう。栃木の学芸員、小勝氏は、柄澤氏の仕事を時系列的に網羅し、それを過去の展覧会の系譜のなかで位置づけ、版画の歴史とパラレルに語るという美術史家としての視点を明らかにしているし、一方鎌倉の学芸員である水沢氏は、自身の柄澤論を展開し、柄澤氏の版画が持つ世界の総体的な再現を主眼に置いている。
神奈川県立近代美術館の展示のあらましは、展示室1に木口木版画、展示室2にリーヴル・オブジェ(6)、庭を臨む半屋外の彫刻室に版画集『方丈記』と「Trans」と題された大きなオブジェ、そして柄澤氏愛用の道具であるビュランと版木があった。さらに、展示室3の天井の高い大きな空間には大きなサイズのモノタイプ(7)と墨の作品、展示室3から階段を昇った小さな空間には版画挿絵を含む装丁本の数々が陳列されていた。
のちほど水沢氏から次ぎのことを伺った。年代ものの羊皮紙や自然界の貝や鉱石、ぜんまい、歯車のコラージュによるオブジェが並んでいる展示室2は、オブジェの林で昆虫採集をするように見立てられている。それから、庭の池の水面が迫り、水面に浮かんでいるような彫刻室には、師である日和崎氏の死を機に、日本的なミニマリズムと精巧な技法により、柄澤氏が新境地を見せた『方丈記』が展示されているが、それらの版画は池の水面から上がる湿潤を含みながら鑑賞されることが期待されている。さらにその隣には、間近の水面に漕ぎ出て行く佇まいの船を模った「Trans」が展示されているという具合である。
展示室から展示室へと足を運び、本を読み進めて行くように、空間と作品が紡ぎだす物語である、柄澤氏の芸術世界の全体を、私たちは身体の五感全てによって受け取ることができる。

では、展示全体がストーリーを秘め「一冊の本」となっている展覧会は、カタログによってどのように表現されているのであろうか。
第一にこのカタログにおいて特筆するべきは、オリジナルの版画が収められているということである。作家自身がこの展覧会のカタログのために、一枚一枚刷り上げた、その一枚が私たちの手元に届くわけである。漆黒の表紙をめくった扉に、オリジナル版画が半透明の薄紙で包まれていて、その薄紙を開くと、ややクリーム色がかった紙に刷られた版画が現れ、作家のサインが添えられている。この版画によって展覧会で見た、数々の版画を思い出すだけではなく、実際に版画に「触れる」ことに大きな意味があるのだ。もともと木版画は本という形で制作され、本のページをめくる、また挿入された版画を触るという行為が伴って愛好されてきたのであり、木版画を鑑賞することは、建物の壁に(展覧会場であろうと教会であろうと)タブローを掛けて見ることとは全く異質の行為であることが、改めてわかる。先述したように、版画は「触覚にかかわる形式のもの」という柄澤氏のメッセージが、このオリジナル版画によって具現化されている。さらにこのオリジナル版画は、作品と私たち、そして作家と私たちの隔たりを一挙に縮めて、アンティームな雰囲気を醸し出し、展覧会の記憶を呼び覚ます触媒となる。
版画が私たちの「触覚」に訴えかけるものであることは、展示内容にも含意されていた。作家が実際に使っている道具、版木、ビュラン、アビニオン・プレス(19世紀の印刷機)が展示されているとともに、ビデオや柄澤氏自身のデモンストレーションによって木版画が刷り上るところを来館者が見る機会を設定している。また展覧会を告知するチラシの色黒の写真には、プレス機の台、台の上に置かれた版木、刷り上ったばかりの紙、そしてその紙を持つ作家の手が写し出されており、連続した制作工程が語られている。紙や道具を通して作家の手による仕事を理解することが、作品に触れる感覚を呼び起こし、木版画が出現する神秘を手繰っていく端緒になると感じた。
続けてカタログのページをめくると、巻頭の挨拶の後に、茅ヶ崎のアトリエでこちらを見ている柄澤氏の写真が掲載されており、オリジナル版画の作者である展覧会の主人公が現れる。その後には、神奈川県立近代美術館館長山梨氏による「イメージの血統―柄澤斎の仕事」と題された柄澤氏の仕事の紹介があり、そのあとに、先に言及したとおり、展覧会の企図を表明する小勝氏と水沢氏の論文が並ぶ。それから、作品が、木口木版画、コラージュ・モノタイプ、リーヴル・オブジェ、水彩・素描(細密画)、墨の作品、装丁・装画・挿絵という七つの手法によってカテゴリー分けされ、それぞれのジャンルについての解説がなされている。個々の作品には、タイトル、英文タイトル、制作年、制作手法、サイズ、これまでの展覧会暦、所蔵先など緻密で十分な情報が控えめに付与されてはいるが、各々の作品は叙述されてはいない。というのも、作品そのものが書物として物語を私たちに伝えているので、紙の上に表象された世界をまた別の人の言葉によってもう一度なぞることは鑑賞の妨げとなるためであろう。
そして数々の作品が紹介された後には、柄澤氏による「「城」にて」という物語が掲載されている。柄澤氏は、下野文学大賞を受賞したミステリー小説『ロンド』(2002年)の作者としても知られており、「言葉」によっても世界を表現し得る作家なのである。「男が星に向けて旅立つ。」という文から始まる、黒地に白い文字が浮き上がる見開き4ページの文章が、柄澤氏の版画の世界を鏡のように映し出し、さらにこのテキストの言葉と物語が彼の芸術観、人生観を投影しているために、ふたたび読者は柄澤氏の世界に惹き込まれる仕掛けになっている。
さらに巻末に、長門氏によって編纂された年譜、展覧会暦、参考文献は、今後の学術的な研究の一助となる完成度の高い資料に仕上がっている。とりわけ年譜においては、年ごとの出来事や展覧会などの柄澤氏の業績に加え、同年の柄澤氏の言葉が挿入されていることが特徴的である。その年の仕事と直接関わる、雑誌の記事や著書の一部が抜粋されて編まれているわけである。この長門氏のご苦労は大変なものであったろうと拝察するが、このような年譜は「言葉」を語る作家である柄澤氏の世界をさらに印象づけたのみならず、このカタログが、最後のページまで読者を惹きつける良質な「一冊の本」であることに大きく寄与している。ただ、巻頭の論文や作品解説、そして柄澤氏のテキストの英訳が巻末に付与されているにもかかわらず、この年譜の英訳がないことは、残念でならない。
そして、このカタログの図版は、これも水沢氏によると、版画の白地の部分がモアレを起こさないよう何度も試行した上で、4色オフセットで印刷されているとのことで、版画をできるだけオリジナルに近い状態で見せる努力が払われている。また、カタログ全編にわたって、論文や巻末の資料で引用された展示作品については、読者が参照するための作品番号が付いているという点にも、主催者側の配慮が感じられる。

以上のように「一冊の本」としてのカタログを見てきた訳であるが、この展覧会のカタログは、回顧展をそのまま写すという「記録」よりむしろ、私たちがその場で柄澤氏の作品を鑑賞し感じて考えることから生まれた「記憶」をとどめている。版画を「見る」「触れる」「読む」という行為を、自然と促すこのカタログは、私たちの五感を刺激し、さらに作品との、また作家との隔たりを消失させ、展覧会の記憶を覚醒する。
さらに重要なことは、展覧会、カタログ、そして鑑賞者との関係性を問うこの企てが、版画の本質に纏わる柄澤氏の芸術観を色濃く、そして忠実に反映していることである。柄澤氏にとって、版画も展覧会も「一冊の本」であり、「読まれるべき」ものであり、そして「触覚という形式にかかわるもの」であることを提起している。
この展覧会によって改めて「版画」を体験したことで、版画を研究する者は、その研究方法を慎重に検討しなければならないことを確認した。時にして、「テキスト」と「イメージ」の関係性を認めつつもそれらを切り離し、視覚イメージに特化して分析を進めることは、版画本来の姿を見失う危険性を孕んでいる。

『柄澤展』のカタログは、鑑賞者一人一人に親密に語りかけることができる版画という芸術ジャンルの本質が、展覧会カタログの在り方に結実している見事な例である。そして私の展覧会カタログ評が、この展覧会に訪れた一人としての証言の記となれば幸いである。


(1)『ギャラリー』Vol256、2006年8月。
(2)『柄澤斎展 版画、オブジェ、水彩、本 1971-2006』栃木県立美術館(2006年7月16日-9月3日)、神奈川県立近代美術館 鎌倉(2006年10月28日-12月24日)、193ページ。<以下『柄澤斎展』と表記。>(柄澤斎「版画を読む」、『版画藝術』No.53、1986年より抜粋された箇所。)
(3)『版画芸術』No.132、2006年、43ページ。
(4)『ギャラリー』Vol256、2006年8月。
(5)『柄澤斎展』41ページ。
(6)「リーヴル・オブジェとは、「文字どおり西洋の古書の「表紙」を素材として、そこに革や博物図版、古地図などを貼り込み、額装された「本の標本」のようなもので、柄澤はこれを「リーヴル・コラージュ」と称した。」というリーヴル・コラージュと、貝殻や鉱物、動物の骨、歯車やぜんまいなど博物館の収蔵庫に眠っていた雑多なものを作家自身の手で収集し、それらをなど標本箱の中に構成するボックス・オブジェの総称であると思われる。」(『柄澤斎展』147ページ。)
(7)「ふつうモノタイプとは版から一枚だけ刷られた版画を言うが、柄澤の手法は、まず緑がかった黒の版画用インクをゴムローラーで紙に盛り、木口の版木に押し付けて型取りした練りゴムを部分的な版とし、インクが乾かないうちにそれを何回も押しつけてかたちをつくるというものである。黒緑色の闇のなかからぼんやりとしたイメージが掬いだされる。」(『柄澤斎展』129ページ。)

「近代文人のいとなみ」展(90号掲載)佐藤温

佐藤温
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』90号、2007年10月、152~156ページ

 成田山書道美術館は、初詣で有名な成田山新勝寺の本堂の奥、成田山公園として整備された広大な庭園の一角に位置する。筆者自身がそうであったように、書道専門というと先入観からこぢんまりとした美術館を予想するかも知れないが、実際に現れたのは重厚かつ壮大な建物であり、中に入れば吹き抜け状の展示スペースに配された巨大な拓本(「紀泰山銘」原拓。高さ約十三メートル)が来館者を迎えてくれる。その美術館の大部分に相当する一・二階をふんだんに使って「近代文人のいとなみ」を明らかにしようというのであるから、改めて期待を強くした。
 筆者は二〇〇六年の十一月に指導教員であるロバート・キャンベル准教授とそのゼミ生を中心としたグループで見学の機会を得た。作品は順路に従って概ね明治初年代から大正頃へという時間軸に沿って配置されており、展示の序盤に目を引いたのは「山紫水明処書画会合作」と題された一幅であった。これは文人墨客との交流が深かった鳩居堂の主人、熊谷直行が明治十一年(一八七八)に主催した書画展観会の席上で制作されたもの(会場の「山紫水明処」は京都における頼山陽旧宅)で、書画を展観し、合わせて煎茶の席を設け、香を楽しんだ参加者たちは、その雅会の空気を伝える書画を紙面を分け合いながら作成した。その共同作者たる山中信天翁・板倉槐堂・江馬天江ら六名は、それぞれ社会的位相は異なるものの、いずれも十九世紀前半に生まれて書画詩文といった文人的教養を身につけ、壮年期に幕末の動乱を経て維新を迎えた、いわば前近代的要素を色濃く持つ文人たちである。本展覧会は、こうした文墨の世界に生きた人々の姿を書という媒体を中心に浮かび上がらせつつ、前近代から近代へという時代の流れの中で文人世界が変容していく様子を追うことを試みた意欲的な展示であった。
 同時期の文人たちの実態については、近年文化史的研究の方面からロバート・キャンベル氏や宮崎修多氏らによる幕末・明治初期の文人の会合や出版についての研究が為され、美術史の側からも佐藤道信氏らの研究によって前近代的文人世界が近代美術制度の中に取り込まれていく様子が明らかにされつつあるなど、徐々に活発化している。本展覧会ではそうした成果を随所で踏まえており、その一例が、文人の交流とその「場」を書以外の媒体も展示しながら多角的に浮かび上がらせようという展示方法である。本展覧会の展示の中心は壁面に掛けられた書画幅であるが、加えてガラスケースに多くの稿本や版本などが陳列されていた。例えば近代の女性南画家の代表格である野口小蘋の画稿集、「写生下図帳」もその一つである。展示では当時の文人の交流の場に不可欠であった煎茶道具の図(茶会後には道具立てを記録する図録を作成することも少なくなかった)、そして会を彩った重鎮たち(岡本黄石・川田甕江ら)の肖像の箇所が公開されており、画に留まらず書も含めた文人世界における小蘋の存在感の大きさを想像させるものとなっている。そして更に観覧者がこの画集から再び壁面に視線を移すと、そこには小蘋に肖像画を描かれた甕江の書が展示されており、文人・書家としての甕江の存在を実感する、という鑑賞のプロセスが用意されていた。
 これについて実際に鑑賞した立場から感想を述べれば、こうした展示の意図に気が付くことで人脈とジャンルが絡み合う濃厚な文人世界というものを意識させられ、そのネットワークを辿る楽しみを感じることができたという実感がある。しかし、今カタログを参照しつつ振り返ってみると、会場内ではそうした展示意図、あるいは展示が作り出すストーリーはもっと鮮明に押し出されていたほうが良かったのではないか、という感想を抱く。
 筆者の場合は日頃研究対象として幕末・明治初期の文人の動向に関心を持っており、加えて当日は本展覧会に中心的に携わった同美術館学芸員の高橋利郎氏に解説を頂きながら鑑賞するという幸運にも恵まれたため、展示された書画と文人たちの世界を結び付ける上でそれほど苦労することは無かったが、今日決して著名ではない文人たちの営為を書を中心に取り上げるという、世間的にはまだまだ認知度の低いテーマを扱う以上、例えば当時の文人たちの会合の様子やその意義などを噛み砕いて説明したキャプションを設けて鑑賞者の理解を助けるなどの配慮が、やはり不可欠なものに思われるのである。
 だが一方で、展示者は実はそうした平明な解説と展示の質のバランスについて苦慮したのではないかと感じる部分もある。それを象徴するのが木戸松菊(孝允)の書幅「瓊浦客中詩」である。この作品は特別に強調されることなく展示されていたが、恐らく作者の知名度という点では本展覧会中一・二位を争う作である。これまで文人世界を縁遠く感じていた鑑賞者にとっては、この誰もが知る維新の立役者が、実は「松菊」というあまり知られない雅号を持ち、書画や詩文を愛し、奥原晴湖や大沼枕山らと交流を持つ文人の顔を持っていた、という事実は興味を惹かれるのではないだろうか。
故に、個人的にはそうしたトピックを押し出さない展示に淡白さと説明の不足を感じていたのだが、後になって改めて考えてみると、今回の展覧会は社会的位相やジャンルを越えて形成された趣味人たちの世界を展示会場に表現すべく、敢えて個々の文人の文人世界の外での顔を必要以上に目立たせてはいないのではないかとも感じた。つまり、世の喧騒から離れた自娯の世界を書画や詩文に見出していた文人たちの世界を描き出す上で、その世界に遊ぶ文人たちを政界や教壇・文壇に無理やり引き戻すようなことをしない配慮が展示には働いていた、と言っては流石に穿ち過ぎであろうか。
この後の展示は時代を明治二十年前後に移し、同時期のメディアと文人たちの関わりを、明治十五年(一八八二)から明治二十一年(一八八八)まで存在した漢学専門書肆、鳳文館を中心に提示する。会場には大沼枕山・依田学海・小野湖山・中村敬宇ら当時の東京を中心とした諸大家の詩文書画を掲載した月刊誌『鳳文会誌』や、石川鴻斎が鳳文館から出版した画法書『画法詳論』の自筆稿本などが陳列され、合わせて関わりのある文人たちの書が展示されていたが、このように書物を通じた文人たちの発信と読者の受容という見えないネットワークをしっかりと「文人のいとなみ」として捉える感覚はやはり高く評価すべきであろう。
 この鳳文館の倒産が象徴するように、明治二十年代から三・四十年代を経るに随って、これまで見てきたような文人世界を下支えする詩文書画の素養は次第に失われていく。しかし、渡仏して洋画を学びつつも書に表現の可能性を探った中村不折や、「書ハ美術ナラス」として美術界に議論を巻き起こした小山正太郎、そして文豪夏目漱石らの書画が順路の終盤にさり気無く展示されているのを目にした時、前近代の残滓が消えつつある中で、変容しながらもしたたかに生き続ける文人世界の姿を垣間見た気がした。
 このように、本展覧会は書を美術作品として提示するのみならず、文人たちの活動や人的交流といった可視化し難いテーマを映し出す媒体として取り上げた点で画期的なものであったが、そのカタログ『近代文人のいとなみ』にもそうした姿勢が随所に反映されている。
本カタログはA5版より少し大きい程度の手になじみやすいサイズで、ほぼ一ページに一作品ずつ作品写真と解説が配されている。小振りな書型ゆえ作品を大判で掲載することはできない(縦長の作品の場合、縦は約十八センチ程度に統一)が、その分一ページに一つの図版をゆったりと配置して傍に解説を付すことによって、作品成立の背景や作者の略歴など鑑賞に必要な情報を即時的に得られるような配慮が為されている。加えて、カタログ全体が展覧会の展示に沿った四章から成り、各章ごとに作品とそれに関わる論考をまとめた構成を採っていることにも窺われるように、本カタログは図録として「見る」と同時に研究入門書として「読む」ことを意識した作りとなっているのだが、その読み応えを支えているのが計七編に及ぶ以下の論考である。
「「書画」の近代」ロバート・キャンベル
「野口小蘋と文人たちの交流」平林彰
「近代文人の住まい―西園寺公望の文人趣味と別荘・坐漁荘」土屋和男
「憧れの文人画家―王建章をめぐる賞玩のいとなみ」小林優子
「煎茶趣味と書画文玩の鑑賞」西嶋慎一
「近代文人とそのいとなみ」高橋利郎
「心目を遊ばす詩書画の世界」永由徳夫
まず冒頭でキャンベル氏は、近代が文人たちにもたらした変化を、彼らの書画を見る「眼」を通して論じる。「スロールッキング」を理想とした前近代の書画鑑賞が、日々の公務に追われ、あるいは書画そのものが日々の公務と結びついていく近代文人たちの中で「余暇」へと収斂していく姿を文人たちの遺したテクストから取り上げた本稿は、前近代から不変なようであって実は確実に変容を迫られていく近代文人たちの世界へと読者を誘う導入部として効果的な役割を果たしている。
 続く平林氏の論文は、先述の野口小蘋が当時の文人サークルにおいて果たした役割や、その周囲を取り巻く文人・パトロンたちとの関係について検討を行ったもので、社会的位相や専門ジャンルの異なる文人たちを結びつけるキーパーソンとしての小蘋像を示している。ちなみに本カタログの表紙は跡見玉枝が明治二十六年(一八九三)に描いた「須永元送別会の図」を全面に配しているのだが、席上で談笑しあるいは揮毫し合う送別会出席者たち(石川鴻斎・巌谷一六・川田甕江・三島中洲ら)に交じって、画中には扇面を前に筆を取りつつ端座する小蘋の姿も見られ、本論文の取り上げる世界を髣髴とさせるものである点も付け加えておきたい。
 また、注目すべきは近代の文人たちの遊ぶ空間そのものである住まいに注目した土屋氏の論考が用意されている点である。建築史を専門とする氏は、小さく隠れたたたずまいの中に三保の松原と清見潟を一面に望む座敷をしつらえた西園寺公望の別荘・坐漁荘を紹介しながら、日常の激務を離れて自ら画中の人となりつつ自娯の世界を楽しんだ近代文人の姿をその建物の構造や配置に目を配りながら論じており、文化史や美術史とは一味違ったアプローチで文人たちの動向を検討する可能性を示している点で、近年の建築史の研究動向とあわせて興味深い一編となっている。
 小林氏の論文は幕末から昭和初期にかけて日本で称揚されていた画家王建章を扱ったもので、今日殆ど知られることのないこの明末清初の画家が、近代日本においては茗讌(煎茶会)の場で文人たちによってさかんに賞玩されていたことを記録や作品の箱書にも触れながら示している。この煎茶会は当時の文人たちにとっての重要な交流の場であり(先に紹介した「山紫水明処書画会合作」の作成された場でもやはり煎茶が会を彩っていた)、そこには中国風の室内装飾が施され、中国渡来の道具が珍重されるという小中華世界が広がっていた。続く西嶋氏の論文はこの世界こそが近代文人のいとなみの源泉たることを論じながら、珍重される作品に勤王運動・王政復古・維新といった時勢の反映を読み取りつつ、清朝の解体とともに中華趣味そのものが衰退していくまでを描いており、文人世界が近代化の中でたどった道筋をその会合の席上から読み取っている。
 そして、総括にあたる高橋氏の論文は、詩書画の混沌とした文人世界、文人を結び付ける場としての煎茶会とそこで流行した中国趣味、それを記録・発信する出版物において肉筆版下が果たした「場」の再現性、といったトピックに再度触れながら、詩文書画の三者が入り組んだ近代文人世界を包括的に捉える試みの重要性を改めて強調している。
 また、本カタログには掲載全作品の釈文・訓読を巻末に付すという、一見地味ながらも鑑賞・研究の上で非常に有益な配慮が為されているのだが、その作業を担当した永由氏は最後に近代文人たちの作品に共通する志向として超俗的なものへの憧れを見出しながら、詩書画を器用に操りつつそこに安逸の世界を作り出そうとしていた文人たちの姿を見ている。尚、この釈文・訓読に見られる丁寧な姿勢は、他にも作品解説・作者略歴などの基本的な部分で共通しており好感が持たれるが、展覧会と同時に単行本として出版されていることと合わせて、本カタログはまだまとまった研究の少ない近代文人研究への入門編として最適であると言えよう。
以上、カタログを一通り見渡してみると、それぞれの取り上げる題材は文人たちの遺したテクストや書画であったり、彼らのいとなみの中で賞玩される書画や茶道具であったり、あるいはそのいとなみの行われた場そのものであったりと多岐にわたっている。このことからも、本展覧会とカタログが書を中心としつつも、文人たちの人脈・交流の場とその形態といったトピックに目を配りながら、前近代から近代にかけて変容していく文人の世界を総合的に描き出そうとする配慮を怠っていなかったことが改めて窺われる。そうした意味で、既存の人物やジャンル、時代による縦割りではなかなか描き切れない文人たちの姿を立体的に捉えようとする近年の文人研究の流れを一層推進する展覧会であったと考えられ、今後の同美術館の動向には大いに期待したいと思っている。


[展覧会およびカタログ・データ]
「近代文人のいとなみ」展
成田山書道美術館(二〇〇六年十一月三日~十二月二十三日)。カタログは成田山書道美術館監修、淡交社発行、二〇〇六年、総頁数二〇七。ISBN4―473―03374―0。

2009年4月12日

「大正シック」展(91号掲載)深見麻

深見麻
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』91号、2008年6月、169~173ページ

 会場(1)を一巡しての感想は、とにかく優美で美しく、見た目に心地よい展覧会だということであった。「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」は二〇〇二年にホノルルで開催され、その後米国本土を回って、五年経った今年日本に巡回となったもので、大正から昭和戦前期にかけて――特に一九二〇年代から一九三〇年代のものを中心として――の絵画(日本画、版画)、工芸品、女性の着物、歌本(流行歌の歌詞を書いた小冊子)などを題材に、当時の日本社会が抱えていた「近代」と「伝統」の間の葛藤と妥協、調和を読み取ることを試みている。絵画だけでなく、工芸品や着物、歌本など通常の美術展では一同に会することの少ない展示品の構成もおもしろかったが、そうした品々がかもし出す女性らしい、華やかな雰囲気が会場を支配していたことも興味深かった。
 しかしカタログを注意深く読むと、展覧会の焦点はこれら見た目に美しい作品そのものではなく、それを形作った政治力学であることが見えてくる。カタログに収録された唯一の論文「大正の花々 日本女性のイメージ その社会と芸術 1915~1935」において、この展覧会の実質的な企画者でカタログ主著者であるケンドール・ブラウンは、大正から昭和初期にかけて日本社会で交わされた、近代日本に望ましい女性像をめぐる正反対の二つのイメージの論争――ひとつは近代=西欧風の思想や生活に過度に染まったと見られたモガ、もう一つは封建的・伝統的な女性像――に当時の「近代」と「伝統」をめぐる葛藤の投影を見、視覚メディアとして美術品もその論争から無縁ではなかったことを論じている。(2)ブラウンの分析の主眼は、モガ像、伝統女性像そのものにあるのではない。この両極端のイメージが、如何に互いに影響しあってそれぞれの極端さを減じ、社会的に好ましい折衷型美人のイメージに修正されていったかを示すことにある。この論点を持ち出すことによって彼は、漫画や写真、洋画に比べてモガ像そのものが描かれることが少ない日本画の世界において、近代的な女性の表象を多面的に語ることを可能にするとともに、伝統的な女性の表象まで分析に取り込み、より広い地平で日本画の近代を描き出すことに成功している。この小評では、企画者である彼の論点と分析手法を中心としてこの展覧会を評価することとしたい。
 そもそもアメリカにおける近代日本画研究は、長く不遇をかこってきた。アジアの伝統美術は一九世紀以降衰退したため、蒐集の価値がないという偏見があったからである。(3)そこには、近代(=西洋)化以前の“伝統的な”作品を最上のものとし、近代的なモチーフ、技法を取り入れたものを劣化と取る、非西洋の文化を永遠の過去に置いてみようとするような非歴史的なものの見方、サイードの言うオリエンタリズムの要素が濃く見える。しかし一九九〇年代以降、そうした偏見の見直しが進んでおり、(4)今回の日本展は、アメリカの近代日本美術観を知る上でも我々日本人にとって興味深いものと言える。(5)カタログ主著者のブラウンは、過去の著作(展覧会カタログ)(6)において、新版画を従来の浮世絵の劣化版としてではなく、大正の文化を反映した独自の芸術として見直すという観点を打ち出した、新しい潮流の近代日本美術研究者の一人である。今回の展覧会も過去の著作のアイデアを踏まえつつ、更に発展させたもので、彼の個性がよく発揮されているように思える。
 具体的な分析において特徴的な点を挙げれば、一つは分析の対象が、画面に描きこまれた小道具、背景、人物の服装といった表面的で分かりやすいものから、仕草、表情といった内面的なもの、また様式や画題、色彩、構図などと幅広く、解釈は日本人から見れば意外性に富んだものが多いことである。例えば、山川秀峰による《婦女四題 秋》(一九二七年)(cat.no.4)の解説では、流行の髪型と着物に身を包んだ和装のモガに、季節に仮託して様々な女性像を描く伝統的な画題が適用されたことに着目し、モガたちが社会に脅威を与えるような新しい存在ではなく、「これまでの世代と比較して本質的でなく、むしろ外観だけが違うもの」(7)に変換されたことを指摘している。これは、新聞雑誌などのモガに関するルポルタージュを題材になされたミリアム・シルバーバーグの研究(8)における指摘――ファッションや生活態度の特異さに焦点を置くことで、現実社会において起こっていた女性の政治への目覚めや、労働争議への参加といった本当の意味で当時としては反社会的、「反逆的」な動きをモガ像から切り離し、性的放縦さや軽薄な享楽主義といった分かりやすく誇張された逸脱に置き換えられていたこと――を連想させるイメージの修正である。
 しかし日本画という、より保守的なメディアで示されたモガは、更に表現がつつましくなっており、このカタログ所収の作品でもファッションという点でモガの性的放縦さや享楽主義をあからさまに感じさせるのは、小早川清による《近代時世粧の内― ほろ酔ひ》(一九三〇年)(cat.no.2)など数点である。むしろ日本画で描かれた当時の近代的な女性の表象においては、表情や視線といった、もっと微妙な表現に現われる知性や意思の存在のようなものが印象的だ。表紙絵の中村大三郎《婦女》(一九三〇年)(cat.no.22)の余裕のある冷たい視線や、和田菁華の《T夫人》(一九三二年)(cat.no.14)の自信に満ちた微笑みは、意識的に昔風の牧歌的でうぶな田舎娘を描いた中島菜刀の《きのこ狩り》(一九一九~二三年頃)(cat.no.28)の人形のようなおっとりとした顔と比較すれば、周囲から自立した近代的な自我を感じさせる。また柿内青葉による《美人》(一九二五年)(cat.no.25)の女性像が見せる憂いは絵画的というよりは、文学や哲学に近いような雰囲気だし、同じ画家による《夏の夕べ》(一九三〇年代初頭)(cat.no.26)では、歌舞伎のモチーフの着物や行灯(ただし中は電気らしい)、団扇という小道具や、しなを作るように床の上で膝を崩してひねった姿勢など、より伝統的な情緒を濃く描いているにも関わらず、女の表情には見る者に媚を売るような気配はなく、ただ自分の内面に没頭している。「そこでは女性は単なる視覚的な快楽の対象ではなく、私的な想いを持つ当世の女として描かれ」(9)ているのである。よってもしもこの展覧会がファッションといった表面的な「近代」の記号にのみ着目して分析を行っていたら、日本画に描き出された近代女性像は極めて限定的な領域にとどまるもの、という結論が出たかもしれない。その意味で、ブラウンが分析対象を幅広く、緩やかに規定したことは評価できよう。
 もう一つの特徴は、この幅広い近代性の発見が、一見伝統的図像そのものという作品の分析にも生かされていることである。例えば伊藤小坡による《元禄美人》(一九二〇年頃)(cat.no.39)は、見返り美人風の姿勢をとった江戸時代の遊女を描いた小品であるが、前結びにした帯、兵庫髷、様式的で小づくりな顔立ち、とどれをとっても近代とは縁がなさそうな作品である。しかしブラウンによる解説はこの作品の緩やかで即興的な軽い描線や、シンプルでやわらかな色調に、大正期らしいさわやかで気の張らない「感覚」(10)を見出している。これらはブラウンの過去の新版画に関する著作において伝統的な女性像が近代的な技法と融合していく過程を分析した経験が生かされた解釈でもある。
 また同じ過去の著作で示されたもう一つのアイデア――江戸(懐古)趣味が近代化の病弊からの逃避となっていたという指摘(11)――は今回の展覧会でもっと本質的な問題として、そうした画題やジャンルそのものが、近代的変化の結果として生み出されたことを強調する形で繰り返されていることも興味深い。例えば、歌舞伎の一場面を描いた北野恒富《冥途の飛脚 梅川》(一九二三年)(cat.no.38)や、日本舞踊を舞う女性を描く山川秀峰《鷺娘》(一九二五年頃)(cat.no.37)などでは、このような画題で描くこと自体が当時の流行であったことを指摘しているが(12)、もっと大きな流れとして、近代化が進んだ大正期に、それに反発するように歴史的、文学的テーマを扱うことで日本の伝統への再挑戦を試みる動きがあったことに着目している。「大正文化は、しばしば過去の損失とその取り返しに重きを置く」(13)と語る本カタログは、いわゆる「伝統の創造」(ホブズボウム)論を援用することで(14)、大正社会の近代を描き出していく。ここでは「近代」と「伝統」は相反するものではなく、裏表の関係で連動するものとしてとらえられている。この現象を捉えることによって、伝統への回帰が大正モダニズムの裏側に、モダニズムへの対応の重要な側面としてあったことを見逃していない。 
 前時代からの劣化や逸脱ではない、当時の社会の空気を反映した独自の領域として近代の日本美術を捉えなおそうという試み――やや安易に言い換えれば、オリエンタリズムからの脱却――において、ジャンルを越えて同時代の作品を同じ基準で測るという視点は斬新で貴重だ。加えてブラウン自身が述べている通り(15)、西洋における大正芸術の研究の多くがモガを代表とするような進歩的なスタイルを重視し、一方美人画に関する研究が逆にモダンな文化を無視して懐古趣味に陥っていたことを考えれば、「近代」と「伝統」の両方を関連づけて視野に入れるという作業は、両方の研究領域をつなげ、かつどちらも相対化する試みとして評価できよう。
 もちろん、画家の属する流派、活躍した地域、制作年代もばらばら、中には制作者や、年代不明のものも複数含まれているという作品選定のあり方は、画家や流派の関係、画壇史の側面が多く取り上げられる日本の美術展の感覚とは距離感のあるものである。一点一点の作品解説には分かる限り制作者の来歴が一応語られているとは言え、作品の解釈とはあまり絡んでこない。ここで作品に要求されているのは、制作にまつわる具体的な背景よりは、そこに何がどういう風に描かれているかだからである。また分析概念として用いられているのは「近代」、「伝統」という漠然としたキーワードで、その意味するところはブラウンの解釈によっている。こうした点に関して批判は当然予想されるところであるが、その漠然とした網で対象を掬い取った結果、日本語版の冒頭に述べられている通り(16)、大正期の社会と文化について、日本人にも一般には認識されていない側面が見えてきていることは確かであろう。
 一方で「近代」という大雑把な時代概念で、大正から昭和戦前期を全てひっくるめてしまうことによって、時代描写が一面的になったという印象は拭えない。そしてこのことは、非歴史的な過去に日本美術を押しとどめようとしてきた一昔前のアメリカの日本美術史観への批判として「近代」を取り上げているにも関わらず、その「近代」像もまたある時期のイメージに留まったままの静的なものにしてしまう危険を生みかねないという問題があるように思う。
 それはこの展覧会が女性のイメージを切り口として取り上げたことにも言える。すでに見てきたように、ブラウンによるカタログの論点は、この近代日本画における女性の表象が当時の女性の実態をそのまま映すのではなく、それをめぐる様々な政治力学の影響を受けて新たに生み出されるものであるというところにある。しかし、会場やカタログにあふれる色鮮やかで優美な日本画の美人を見ていると、それら女性のイメージが持つ圧倒的な存在感の前に、そうした政治学に対する分析はかすんでしまっているように思えた。そのイメージが実態と乖離していることを示すために、作品の回りの情報や、比較対象となる資料(洋画とか写真、イラスト、漫画など)――これは所蔵品を中心とした展覧会なので、無いものねだりかもしれないが――があると、よりテーマが見えやすくなったのではなかったかとも思う。
 最後にカタログ日本語版に関していくつか感想を述べておこう。シャロン・ミニチェロによる歴史的な背景説明は、このカタログの時代観の基になるものであるため、やはり日本語訳して冒頭に置く方が良かったと思われる。またブラウン論文の翻訳において、一部表現に疑問が残るものがあったこと(17)も些細なことだが、一応指摘しておく。また、これも無いものねだりであるが、このようなアメリカの日本美術研究のあり方に対して、日本側のコメントが具体的な形で追加されていたら、更に興味深く、かつ今後の日本での研究に資するものとなったのではないだろうかと夢想している。  
 ともあれ、見た目の心地よさとその心地よさの裏側に焦点を当てた刺激的なカタログで楽しめる展覧会であったことは間違いなく、これをきっかけに、今回不明とされた画家の解明も含め、日本側でも研究がすすむことを期待したい。

(展覧会およびカタログデータ)
「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」 東京 東京都庭園美術館(二〇〇七年四月一四日~七月一日) 巡回展は、尼崎市、尼崎市総合文化センター(二〇〇七年七月二八日~八月二六日)、静岡市 静岡県立美術館(二〇〇七年九月八日~一〇月一四日)、尾道市、尾道市立美術館(二〇〇七年一〇月二〇日~一二月一六日)。カタログは本展のアメリカ版カタログ、Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002.の翻訳を中心に国際アート編集・発行、二〇〇七年、総頁数百八十。

*アメリカでの巡回データ
Honolulu Academy of Arts, January 31 to March 15, 2002; The David and Alfred Smart Museum of Art, The University of Chicago, April 20 to June 22, 2004; The Marion Koolger McNay Art Museum, San Antonio, March 15 to June 4, 2005; Berkeley Art Museum and Pacific Film Archive, University of California, September 13, 2005 to January 8, 2006.


(1)評者が訪れたのは、静岡県立美術館である。
(2)本展カタログp.12
(3)George R. Ellis, “Preface”, in Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002. p.6
(4)スティーブン・L・リトル「はじめに」、本展カタログp.8
(5)日本展版のカタログは、基本的には二〇〇二年出版の英語版カタログをそのまま日本語訳したものとなっている。違いは、日本展には出品されなかった展示品の解説が削除されているのと、英語版で冒頭にあった歴史学者シャロン・ミニチェロによる大正の日本社会に関する説明が日本語訳されないまま最後に移動されていること、また序文が二〇〇二年当時の館長ジョージ・エリスから二〇〇七年現在の館長スティーブン・リトルのものに変わっていることなどである。
(6)Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan. (Los Angeles: Los Angeles County Museum of Art), 1996. なおブラウンは同年にLight in the Darkness: Women and Japanese Prints of Early Shōwa.(Los Angeles: Fisher Gallefy)というやはり新版画の展覧会カタログを編集しているが、こちらの方は評者は未見である。
(7)本展カタログp.32
(8)Silverberg, Miriam, “The Modern Girl as Militant,” in Bernstein, Gail Lee, ed., Recreating Japanese Women, 1600-1945. (Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press),1991.pp.239-266. この文献はカタログの参考文献として記載されている。
(9)本展カタログp.74
(10)本展カタログp.104
(11)Brown, Kendall. “Modernity and Memory: Shin-hanga and Taishō Culture.”, in Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan, p.36.
(12)本展カタログp.102
(13)本展カタログp.18
(14)Vlastos, Stephen, ed., Mirror of Modernity: Invented Traditions of Modern Japan.(Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press), 1998.が参照されている。
(15)本展カタログp.16
(16)本展カタログp.7
(17)英語版p.23のaffectを「影響」と訳しているが、その後の言い換えを見ても、また参照されたDipesh Chakrabartyの論文を見ても、「感情」を指す語だと思われる。

2010年10月 7日

「アジアのキュビスム」ソウル展(91号掲載)前島 志保

前島志保
執筆時 :神奈川大学非常勤講師、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学大学院アジア学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』91号、2008年06月、167-168頁

「アジアのキュビスム」展は、東京展の後、ソウル、シンガポールでも順次、開催された。筆者は、2005年12月半ば、徳壽宮美術館(韓国国立現代美術館分館)で開催されていた同展を見る機会に恵まれたので、その印象を東京展と対比しながら簡単に紹介したい。
韓洋折衷の徳壽宮は、いかにも「アジアのキュビスム」展に相応しい会場だった。ソウルの中心部、市庁に近く、古くからの繁華街、明洞からもほど近いこの王宮は、ガイド・ブックによれば、観光地であるとともに、市民の身近な公園的な場でもあるという。なるほど、芝生と樹木から成る都会のオアシスとも言うべき宮殿構内には、地方からの年輩の観光客とおぼしき団体や、おしゃべりに興じる高校生の姿が点在している。構内奥に半島初の洋館といわれる石造殿があり、ここが美術館になっていた。
展覧会は、一言で言って、同じ展示物を用いても展示方法が異なればこれほどまでにも別物になってしまうのかということを実感させられるものだった。ネオルネッサンス式の白亜の石造殿の中の四室が四つの基調テーマに充てられているのは、東京展と変わりなかった。しかし、解説パネルはそれぞれの部屋に一、二枚ほどしか掲げられておらず、来歴のよく分からない絵画の数々がただ並べられているという印象であった。各作品のかたわらに国名がひときわ大きく記されており、国家の枠組みを超えて絵を見る体験を提供しようとしていた東京展の方向性とは大分、異なる趣を展覧会全体に与えていた。東京展で印象的だった、各地の近代絵画史と主な政治的事件の年表だけを壁一面に掲げたスペースが無かったのは、おそらく、歴史的建造物を会場としていたために、そのような自由な空間使いが不可能だったのだろう。
何より、来訪者が異常に少なかったことには驚いた。私がいた二時間ほどの間中、ただの一人も他の鑑賞者が入ってこなかったのだ。平日の午後ということを考慮してみても、これは少し異様だった。入館者の少なさは、同展の宣伝がほとんどなされていなかったせいかもしれない。会場に向う途中、「アジアのキュビスム」展のポスターが全く見られなかったので、開催時期を間違えてしまったのではないか、もう「アジアのキュビスム」展は終了してしまったのではないか、と気をもんだほどであった。これに対して、近くのソウル市立美術館のマティスとフォービズムの画家たちを扱った展覧会のほうは、街中、地下鉄構内にまで幟やポスターを大々的に掲げて華々しく開催されており、会場には多くの観客が列をなしていた。では両展の人の入り具合の違いは入館料のせいかというと、そういうわけでもないようである。たしかに、「アジアのキュビスム展」に入場するには、展覧会の券(3000ウォン)の他に、まず、入り口で徳壽宮の入場券(1000ウォン)を購入しなければならない。しかし、一方、ソウル市立美術館「マティスと不滅の色彩画家たち」展の入場券はその倍以上の10000ウォンである。これは、韓国におけるアジアの近代絵画への関心の低さを示しているのか、それとも、単に宣伝費が足りなかったということなのだろうか。
ところが面白いことに、ソウル展のカタログのほうは、掲載作品や論文は同じものの、東京展のカタログよりも全般的に充実していた。これは、日本語版カタログが貧弱だったということでは決してない。筆者が本誌第87号で紹介したように、東京展のカタログは、盛りだくさんの内容が凝縮された、中身の濃いものであった。ただ、ソウル展のカタログは、それを上回るものだったのだ。一読してまず気付く違いは、掲載された絵画の画像の大きさである。総ページ数211の日本語版では全ての絵画が最大でも半ページ大の小さな画像で収録されていたのが、ソウル展のカタログでは、284ページという紙面数を十二分に活かして、一つ一つの作品が大きく取り上げられていた。一ページを使って堂々と掲載された作品は、線の勢いやキャンバスに重ねられた絵の具の質感までが伝わってくるようで、複製とは言え、迫力がある。さらに、日本語版には無かった、掲載論文と解説文および作者略歴の英訳までが巻末に収録されており、まさに至れり尽くせりの体裁である。もちろん、これを、韓国の学術世界における英語文化圏 - 特にアメリカ - の影響力の大きさと解釈することもできなくはないけれど、ここは、むしろ、国際的にこの展覧会の意義を発信しようという意気込みのあらわれと解したい。
あまり力の入っていないように見受けられる展示・宣伝と異様に豪華なカタログ ― このギャップをどう解釈したらいいのか、韓国の美術事情、展覧会事情に疎い私には、正直言って、よくわからない。単に会場スペースの使用上の制約や費用、カタログ準備期間を長くとれたことなどが要因なのか。それとも、韓国では、非欧米圏の近代文化への関心があまり高くない一方で、豪華なカタログが次第に増えてきているのか。少しうがった見方をするならば、この企画は実は日本側の強力な主導のもとに進められたもので、協力国・地域の間で取組みに温度差があるのではないかと考えられなくもない(なにしろ、カタログ冒頭に収められた八篇の序論と解説論文のうち、半分は日本人研究者の手によるものなのだ)。
いずれにせよ、東京、ソウルと、一見、ほぼ同じながらも、全く別様の展覧会とカタログを楽しむことができた。展示作品がヨーロッパ発の近代絵画のアジアにおける変奏だったとすれば、展示とカタログ自体もまた、ソウル、東京の各都市における変奏だったのである。
シンガポールでは、一体、どんな曲が奏でられたのだろうか。

〔展覧会およびカタログ・データ〕
‘아시아 큐비즘: 경계 없는 대화’전 (「アジアのキュビスム:境界無き対話」展) 
국립현대미술관 덕수궁미술관 (〔韓国〕国立現代美術館 徳壽宮美術館〕
2005년 11월11일~ 2006년 1월30일 (2005年11月11日~2006年1月30日)
カタログは김인혜(한국국립현대미술관)(キム・インヘ〔韓国国立現代美術館〕)編輯、국립현대미술관/일본국제교류기금(〔韓国〕国立現代美術館/日本国際交流基金)発行、二〇〇五年、総頁数二百八十四。

カタログ評『大正シック展』(91号掲載)深見 麻

深見 麻
執筆時 :東大比較文学会 学会員
雑誌情報 : 『比較文學研究』91号、2008年06月、169-173頁

 会場(1) を一巡しての感想は、とにかく優美で美しく、見た目に心地よい展覧会だということであった。「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」は二〇〇二年にホノルルで開催され、その後米国本土を回って、五年経った今年日本に巡回となったもので、大正から昭和戦前期にかけて――特に一九二〇年代から一九三〇年代のものを中心として――の絵画(日本画、版画)、工芸品、女性の着物、歌本(流行歌の歌詞を書いた小冊子)などを題材に、当時の日本社会が抱えていた「近代」と「伝統」の間の葛藤と妥協、調和を読み取ることを試みている。絵画だけでなく、工芸品や着物、歌本など通常の美術展では一同に会することの少ない展示品の構成もおもしろかったが、そうした品々がかもし出す女性らしい、華やかな雰囲気が会場を支配していたことも興味深かった。
しかしカタログを注意深く読むと、展覧会の焦点はこれら見た目に美しい作品そのものではなく、それを形作った政治力学であることが見えてくる。カタログに収録された唯一の論文「大正の花々 日本女性のイメージ その社会と芸術 1915~1935」において、この展覧会の実質的な企画者でカタログ主著者であるケンドール・ブラウンは、大正から昭和初期にかけて日本社会で交わされた、近代日本に望ましい女性像をめぐる正反対の二つのイメージの論争――ひとつは近代=西欧風の思想や生活に過度に染まったと見られたモガ、もう一つは封建的・伝統的な女性像――に当時の「近代」と「伝統」をめぐる葛藤の投影を見、視覚メディアとして美術品もその論争から無縁ではなかったことを論じている。(2) ブラウンの分析の主眼は、モガ像、伝統女性像そのものにあるのではない。この両極端のイメージが、如何に互いに影響しあってそれぞれの極端さを減じ、社会的に好ましい折衷型美人のイメージに修正されていったかを示すことにある。この論点を持ち出すことによって彼は、漫画や写真、洋画に比べてモガ像そのものが描かれることが少ない日本画の世界において、近代的な女性の表象を多面的に語ることを可能にするとともに、伝統的な女性の表象まで分析に取り込み、より広い地平で日本画の近代を描き出すことに成功している。この小評では、企画者である彼の論点と分析手法を中心としてこの展覧会を評価することとしたい。
そもそもアメリカにおける近代日本画研究は、長く不遇をかこってきた。アジアの伝統美術は一九世紀以降衰退したため、蒐集の価値がないという偏見があったからである (3)。そこには、近代(=西洋)化以前の“伝統的な”作品を最上のものとし、近代的なモチーフ、技法を取り入れたものを劣化と取る、非西洋の文化を永遠の過去に置いてみようとするような非歴史的なものの見方、サイードの言うオリエンタリズムの要素が濃く見える。しかし一九九〇年代以降、そうした偏見の見直しが進んでおり、(4) 今回の日本展は、アメリカの近代日本美術観を知る上でも我々日本人にとって興味深いものと言える。(5) カタログ主著者のブラウンは、過去の著作(展覧会カタログ)(6) において、新版画を従来の浮世絵の劣化版としてではなく、大正の文化を反映した独自の芸術として見直すという観点を打ち出した、新しい潮流の近代日本美術研究者の一人である。今回の展覧会も過去の著作のアイデアを踏まえつつ、更に発展させたもので、彼の個性がよく発揮されているように思える。
具体的な分析において特徴的な点を挙げれば、一つは分析の対象が、画面に描きこまれた小道具、背景、人物の服装といった表面的で分かりやすいものから、仕草、表情といった内面的なもの、また様式や画題、色彩、構図などと幅広く、解釈は日本人から見れば意外性に富んだものが多いことである。例えば、山川秀峰による《婦女四題 秋》(一九二七年)(cat.no.4)の解説では、流行の髪型と着物に身を包んだ和装のモガに、季節に仮託して様々な女性像を描く伝統的な画題が適用されたことに着目し、モガたちが社会に脅威を与えるような新しい存在ではなく、「これまでの世代と比較して本質的でなく、むしろ外観だけが違うもの」 (7)に変換されたことを指摘している。これは、新聞雑誌などのモガに関するルポルタージュを題材になされたミリアム・シルバーバーグの研究(8) における指摘――ファッションや生活態度の特異さに焦点を置くことで、現実社会において起こっていた女性の政治への目覚めや、労働争議への参加といった本当の意味で当時としては反社会的、「反逆的」な動きをモガ像から切り離し、性的放縦さや軽薄な享楽主義といった分かりやすく誇張された逸脱に置き換えられていたこと――を連想させるイメージの修正である。
しかし日本画という、より保守的なメディアで示されたモガは、更に表現がつつましくなっており、このカタログ所収の作品でもファッションという点でモガの性的放縦さや享楽主義をあからさまに感じさせるのは、小早川清による《近代時世粧の内― ほろ酔ひ》(一九三〇年)(cat.no.2)など数点である。むしろ日本画で描かれた当時の近代的な女性の表象においては、表情や視線といった、もっと微妙な表現に現われる知性や意思の存在のようなものが印象的だ。表紙絵の中村大三郎《婦女》(一九三〇年)(cat.no.22)の余裕のある冷たい視線や、和田菁華の《T夫人》(一九三二年)(cat.no.14)の自信に満ちた微笑みは、意識的に昔風の牧歌的でうぶな田舎娘を描いた中島菜刀の《きのこ狩り》(一九一九~二三年頃)(cat.no.28)の人形のようなおっとりとした顔と比較すれば、周囲から自立した近代的な自我を感じさせる。また柿内青葉による《美人》(一九二五年)(cat.no.25)の女性像が見せる憂いは絵画的というよりは、文学や哲学に近いような雰囲気だし、同じ画家による《夏の夕べ》(一九三〇年代初頭)(cat.no.26)では、歌舞伎のモチーフの着物や行灯(ただし中は電気らしい)、団扇という小道具や、しなを作るように床の上で膝を崩してひねった姿勢など、より伝統的な情緒を濃く描いているにも関わらず、女の表情には見る者に媚を売るような気配はなく、ただ自分の内面に没頭している。「そこでは女性は単なる視覚的な快楽の対象ではなく、私的な想いを持つ当世の女として描かれ」 (9)ているのである。よってもしもこの展覧会がファッションといった表面的な「近代」の記号にのみ着目して分析を行っていたら、日本画に描き出された近代女性像は極めて限定的な領域にとどまるもの、という結論が出たかもしれない。その意味で、ブラウンが分析対象を幅広く、緩やかに規定したことは評価できよう。
もう一つの特徴は、この幅広い近代性の発見が、一見伝統的図像そのものという作品の分析にも生かされていることである。例えば伊藤小坡による《元禄美人》(一九二〇年頃)(cat.no.39)は、見返り美人風の姿勢をとった江戸時代の遊女を描いた小品であるが、前結びにした帯、兵庫髷、様式的で小づくりな顔立ち、とどれをとっても近代とは縁がなさそうな作品である。しかしブラウンによる解説はこの作品の緩やかで即興的な軽い描線や、シンプルでやわらかな色調に、大正期らしいさわやかで気の張らない「感覚」(10) を見出している。これらはブラウンの過去の新版画に関する著作において伝統的な女性像が近代的な技法と融合していく過程を分析した経験が生かされた解釈でもある。
また同じ過去の著作で示されたもう一つのアイデア――江戸(懐古)趣味が近代化の病弊からの逃避となっていたという指摘 (11)――は今回の展覧会でもっと本質的な問題として、そうした画題やジャンルそのものが、近代的変化の結果として生み出されたことを強調する形で繰り返されていることも興味深い。例えば、歌舞伎の一場面を描いた北野恒富《冥途の飛脚 梅川》(一九二三年)(cat.no.38)や、日本舞踊を舞う女性を描く山川秀峰《鷺娘》(一九二五年頃)(cat.no.37)などでは、このような画題で描くこと自体が当時の流行であったことを指摘しているが(12) 、もっと大きな流れとして、近代化が進んだ大正期に、それに反発するように歴史的、文学的テーマを扱うことで日本の伝統への再挑戦を試みる動きがあったことに着目している。「大正文化は、しばしば過去の損失とその取り返しに重きを置く」 (13)と語る本カタログは、いわゆる「伝統の創造」(ホブズボウム)論を援用することで(14) 、大正社会の近代を描き出していく。ここでは「近代」と「伝統」は相反するものではなく、裏表の関係で連動するものとしてとらえられている。この現象を捉えることによって、伝統への回帰が大正モダニズムの裏側に、モダニズムへの対応の重要な側面としてあったことを見逃していない。 
前時代からの劣化や逸脱ではない、当時の社会の空気を反映した独自の領域として近代の日本美術を捉えなおそうという試み――やや安易に言い換えれば、オリエンタリズムからの脱却――において、ジャンルを越えて同時代の作品を同じ基準で測るという視点は斬新で貴重だ。加えてブラウン自身が述べている通り(15) 、西洋における大正芸術の研究の多くがモガを代表とするような進歩的なスタイルを重視し、一方美人画に関する研究が逆にモダンな文化を無視して懐古趣味に陥っていたことを考えれば、「近代」と「伝統」の両方を関連づけて視野に入れるという作業は、両方の研究領域をつなげ、かつどちらも相対化する試みとして評価できよう。
もちろん、画家の属する流派、活躍した地域、制作年代もばらばら、中には制作者や、年代不明のものも複数含まれているという作品選定のあり方は、画家や流派の関係、画壇史の側面が多く取り上げられる日本の美術展の感覚とは距離感のあるものである。一点一点の作品解説には分かる限り制作者の来歴が一応語られているとは言え、作品の解釈とはあまり絡んでこない。ここで作品に要求されているのは、制作にまつわる具体的な背景よりは、そこに何がどういう風に描かれているかだからである。また分析概念として用いられているのは「近代」、「伝統」という漠然としたキーワードで、その意味するところはブラウンの解釈によっている。こうした点に関して批判は当然予想されるところであるが、その漠然とした網で対象を掬い取った結果、日本語版の冒頭に述べられている通り(16) 、大正期の社会と文化について、日本人にも一般には認識されていない側面が見えてきていることは確かであろう。
一方で「近代」という大雑把な時代概念で、大正から昭和戦前期を全てひっくるめてしまうことによって、時代描写が一面的になったという印象は拭えない。そしてこのことは、非歴史的な過去に日本美術を押しとどめようとしてきた一昔前のアメリカの日本美術史観への批判として「近代」を取り上げているにも関わらず、その「近代」像もまたある時期のイメージに留まったままの静的なものにしてしまう危険を生みかねないという問題があるように思う。
それはこの展覧会が女性のイメージを切り口として取り上げたことにも言える。すでに見てきたように、ブラウンによるカタログの論点は、この近代日本画における女性の表象が当時の女性の実態をそのまま映すのではなく、それをめぐる様々な政治力学の影響を受けて新たに生み出されるものであるというところにある。しかし、会場やカタログにあふれる色鮮やかで優美な日本画の美人を見ていると、それら女性のイメージが持つ圧倒的な存在感の前に、そうした政治学に対する分析はかすんでしまっているように思えた。そのイメージが実態と乖離していることを示すために、作品の回りの情報や、比較対象となる資料(洋画とか写真、イラスト、漫画など)――これは所蔵品を中心とした展覧会なので、無いものねだりかもしれないが――があると、よりテーマが見えやすくなったのではなかったかとも思う。
 最後にカタログ日本語版に関していくつか感想を述べておこう。シャロン・ミニチェロによる歴史的な背景説明は、このカタログの時代観の基になるものであるため、やはり日本語訳して冒頭に置く方が良かったと思われる。またブラウン論文の翻訳において、一部表現に疑問が残るものがあったこと(17) も些細なことだが、一応指摘しておく。また、これも無いものねだりであるが、このようなアメリカの日本美術研究のあり方に対して、日本側のコメントが具体的な形で追加されていたら、更に興味深く、かつ今後の日本での研究に資するものとなったのではないだろうかと夢想している。  
ともあれ、見た目の心地よさとその心地よさの裏側に焦点を当てた刺激的なカタログで楽しめる展覧会であったことは間違いなく、これをきっかけに、今回不明とされた画家の解明も含め、日本側でも研究がすすむことを期待したい。

(展覧会およびカタログデータ)
「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」 東京 東京都庭園美術館(二〇〇七年四月一四日~七月一日) 巡回展は、尼崎市、尼崎市総合文化センター(二〇〇七年七月二八日~八月二六日)、静岡市 静岡県立美術館(二〇〇七年九月八日~一〇月一四日)、尾道市、尾道市立美術館(二〇〇七年一〇月二〇日~一二月一六日)。カタログは本展のアメリカ版カタログ、Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002.の翻訳を中心に国際アート編集・発行、二〇〇七年、総頁数百八十。

*アメリカでの巡回データ(もし必要であれば)
Honolulu Academy of Arts, January 31 to March 15, 2002; The David and Alfred Smart Museum of Art, The University of Chicago, April 20 to June 22, 2004; The Marion Koolger McNay Art Museum, San Antonio, March 15 to June 4, 2005; Berkeley Art Museum and Pacific Film Archive, University of California, September 13, 2005 to January 8, 2006.

評者が訪れたのは、静岡県立美術館である。
本展カタログp.12
George R. Ellis, “Preface”, in Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002. p.6
スティーブン・L・リトル「はじめに」、本展カタログp.8
日本展版のカタログは、基本的には二〇〇二年出版の英語版カタログをそのまま日本語訳したものとなっている。違いは、日本展には出品されなかった展示品の解説が削除されているのと、英語版で冒頭にあった歴史学者シャロン・ミニチェロによる大正の日本社会に関する説明が日本語訳されないまま最後に移動されていること、また序文が二〇〇二年当時の館長ジョージ・エリスから二〇〇七年現在の館長スティーブン・リトルのものに変わっていることなどである。
Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan. (Los Angeles: Los Angeles County Museum of Art), 1996. なおブラウンは同年にLight in the Darkness: Women and Japanese Prints of Early Shōwa.(Los Angeles: Fisher Gallefy)というやはり新版画の展覧会カタログを編集しているが、こちらの方は評者は未見である。
本展カタログp.32
Silverberg, Miriam, “The Modern Girl as Militant,” in Bernstein, Gail Lee, ed., Recreating Japanese Women, 1600-1945. (Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press),1991.pp.239-266. この文献はカタログの参考文献として記載されている。
本展カタログp.74
本展カタログp.104
Brown, Kendall. “Modernity and Memory: Shin-hanga and Taishō Culture.”, in Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan, p.36.
本展カタログp.102
本展カタログp.18
Vlastos, Stephen, ed., Mirror of Modernity: Invented Traditions of Modern Japan.(Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press), 1998.が参照されている。
本展カタログp.16


「パリへ――洋画家たち百年の夢」展と「黒田から藤田へ――パリの日本人画家」展 (93号掲載) 林 久美子

林久美子
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』93号、2009年06月、144-149頁

ここに2冊の展覧会カタログがある。1冊はA4版より少し横長で、黒田清輝の《婦人像(厨房)》と《雲》が組み合わされた表紙、タイトルは『パリへ―洋画家たち百年の夢(Les peintres japonais occidentalisants et Paris : un rêve séculaire)』と付されている。もう1冊は一見、画集を思わせるようなハードカバーの大型本で、藤田嗣治の《五人の裸婦》を表表紙、黒田清輝の《読書》を小さめの裏表紙とし、タイトルは《de Kuroda à Foujita : Peintres Japonais à Paris(黒田から藤田へ―パリの日本人画家)》となっている。このように、外観が大きく異なり、全くの別物に思われるこの2冊のカタログであるが、実は同様の企画のもと、日本とパリで行われた展覧会のものである。幸いにも私は日仏双方の展示を観覧する機会を得たので、この二つの展覧会とカタログを同時に紹介してみたいと思う。

二つのカタログの冒頭に付されている総論は、まず「洋画」という語の定義(1) から始められている。「洋画」とは「明治時代以降の日本人が、西洋的素材と様式で描いた絵画」で、「「日本画」という語と表裏一体で成立し、自国の文化を国際社会に紹介するために、開国後に使われ始めた」 もの(2)であるとここで確認することは、本展の主題を読み取る上でも重要といえる。というのも、本展は単に、明治から平成にかけてパリに留学した、洋画家たちの代表作を振り返るというだけの意味を持つものではないからだ。パリ体験を通してこそより鮮明化した、「洋画」とは何か、特に日本固有の「洋画」とは何かという命題に対し、それぞれの立場で苦闘した洋画家たちの軌跡を辿ることこそ、本展の主題といえる。とはいえ、こうしたテーマはもはやそれほど目新しいものでもないだろう。
本展も大まかには、〈パリと日本人画家〉という主題を持つ展覧会の系譜 (3)に位置づけられる。しかし、過去に開かれた一連の展覧会と比較しても、渡仏日本人画家の作品を通時的に追うという本展の試みは、ある意味凡庸で、際立った特徴があるとはいえない。ただ、最初期から現代までのおよそ百年という長いスパンでの通史であるということと、日本での展示は、東京藝術大学創立一二〇周年記念展ということもあり、作家が東京美術学校・東京藝術大学の関係者に限定されていたことが特徴といえるかもしれない。章解説などでも美校・藝大と洋画壇との関係に焦点が当てられて、美校・藝大の歴史を振り返るものともなっていた。日本洋画の歴史と美校・藝大の歴史を無理なくリンクさせ、名品で辿るという構成は、藝大美術館ならではの企画と言えよう。また、日仏双方で展覧したことにも意味があったと考える。そこで以下、日仏での展示構成を振り返ってみたい。


はじめに、東京藝術大学大学美術館を訪れた。導入部分として十点ほどしか作品数のなかった「Ⅰ 黒田清輝のパリ留学時代―ラファエル・コランとの出会い」のうち、特に惹きつけられたのは、会場入口に展示された本展の顔ともいうべき作品、黒田の《婦人像(厨房)》(cat. 8)(4) である。全体にブルーグレーの澄んだ空気の中、黒田のグレー村でのモデル・マリアがこちら向きに腰掛けている。図版などで見慣れてはいたものの、その堂々とした大きさ、落ち着いた青と黒の色調、深みのある女性のまなざし、繊細な手の表現など、直接目にした作品の魅力に引き込まれた。そして、この作品が洋画を学び始めて5年ほどの、黒田初期の作品であることに改めて驚かされる。Ⅰ章ではもう一つ、山本芳翠の《浦島図》(cat. 5)が目に留まった。芳翠のパリ留学時に描かれ、ジュディット・ゴーチエの美麗な横顔として有名な《西洋婦人像》(cat. 4)とのギャップは衝撃的でさえある。ある種異様にも感じられる和洋混淆の《浦島図》は、日本的な画題を油彩画で如何に描くかという、帰国した後に多くの洋画家が直面した問題を如実に示しているといえるだろう。
「Ⅱ 美術学校西洋画科と白馬会の設立、一九〇〇年パリ万博参加とその影響」では、東京美術学校に西洋画科が開設された一八九六年から第一次大戦開戦までに渡仏した画家たちの作品が紹介されている。ここでは日本に帰国した後の黒田の作品も展示されており、日本風洋画の試みを見ることができる。この傾向が最も顕著なのは、今や日本絵画の代表とも語られ、誰もが一度は目にしたことがあるであろう《湖畔》(cat. 12)である。水彩画を思わせるような、薄塗りで平板な画面は、油彩画としては物足りない気もするが、画題である日本風俗と相まって、日本人にとって親しみやすい作品となっている。先述した《婦人像(厨房)》のような滞仏中の作品と比べてみると、その変化は明らかである。パリ滞在前後の変化が最もと言ってよいほど著しいのは浅井忠であろう。一九〇〇年のパリ万博で日本洋画の見劣りに衝撃を受けた浅井は、大きく方向転換を強いられ、帰国後は京都に活躍の場を移し、後身の指導に力を注ぐ一方、日本画や工芸デザインを試みた。紙本や絹本の日本画、図案や絵付けされた陶器などは洋画ばかりの会場の中で異彩を放っていた。この浅井の画塾(聖護院絵画研究所、後に関西美術院)から安井曾太郎と梅原龍三郎が輩出され、パリ留学の後、それぞれの方法で「日本的油絵」に到達したということもまた興味深い事実であろう。
「Ⅲ 両大戦間のパリ―藤田嗣治と佐伯祐三の周辺」では、第一次大戦前からパリに滞在し、戦中もパリに留まった藤田嗣治をはじめとして、第二次大戦直前までパリに滞在した岡本太郎までの両大戦間期にパリに滞在した洋画家たちの作品が展示されていた。紹介された大半の画家の自画像(東京美術学校の卒業制作)が展示されており、渡仏前とその後で画風にどのような変容があったのか比較できるようになっている。「日本の風景は絵にならない」と病をおして再渡仏し、パリの広告や壁など優れた作品を残しながら夭折した佐伯祐三。逆に「パリの絵はつまらない」と述べながらも確実に画風を変化させ、日本的裸婦の美を確立した小出楢重。浮世絵からヒントを得、独特の線描と乳白色の絵肌でパリ画壇の寵児にまで登り詰めた藤田嗣治。こうした画家たちの多彩な展示作品からは、時代と共にパリ体験の意味も多様化し、また個々の画家にとっての比重も異なっていたことが伺える。
次の「Ⅳ 戦後の留学生と現在パリで活躍する人びと」では、オブジェやインスタレーションなどの現代美術が展示されており、新たにそれまでとは全く別の展覧会にでも訪れたような気分になった。この展示室にも油彩画はもちろん展示されていたのだが、本展の副題にもある「洋画」とはかけ離れた感があり、Ⅲ章までとⅣ章の間には大きな断層があるように感じられた。こうした懸隔は、もはや「洋画」というジャンルさえ成立せず、またパリというトポスの特権性も低下しているのだということを示しているのかもしれない。ただ、展示の最後を締めくくるものとしては、Ⅲ章までの展示内容の記憶も薄れてしまうようで、少し残念な気もした。またカタログにおいて、Ⅲ章まではほぼ1ページに1作品を配し、その余白に作品解説が付いていたのに対し、Ⅳ章では作品解説がほとんどなかった。(Ⅳ章の作品三五点のうち、作品解説があるのは四点のみ)現代美術を言葉で解説するのは無意味なことなのかもしれないが、私のように不慣れな鑑賞者にとってはもう少し説明があるとありがたかった。とはいえ、日本版カタログには、総論や各章解説のほかに3つのエッセイが収められており、そのうち戦後フランスの文化行政に関する平川滋子氏のエッセイは、現代フランスにおける政府と芸術家との関係を詳細に伝えて興味深い。現代美術に疎い私には現代美術の置かれている背景を知ることは新鮮で、普段はあまり馴染みのない作品に近づく一歩となるように感じられた。


続いて二〇〇七年十月末、パリ日本文化会館にて《de Kuroda à Foujita》を観覧した。パリでの展示を見るまでは、日本とほぼ同一の展示内容だと勝手に思い込んでいたので、現地の人びとがどのような反応を示すのか、大変興味と期待を持って会場に向かった。ところが、それはある意味で裏切られたといえるだろう。展示内容は半ば異なっていたのである。
 日本での展示構成のうち、Ⅳ章を全くなくし、Ⅲ章までを4章(5) に(Ⅱ章の後半を一つの章として、新たに《Chapitre 3 Yasui Sôtarô et Umehara Ryûzaburô : En quête d’ une peinture occidentalisante purement japonaise(第3章 安井曾太郎と梅原龍三郎―日本的洋画を求めて)》を設け、その前後の章題・区分などには変化なし)構成し直して展示された。日本ではⅢ章までで二十人の画家が紹介されたが、パリでの展示ではそのうちの十一人に絞られ、坂本繁二郎、児島善三郎の二名が新たに付け加えられて、計十三名の画家が紹介されている。
日本とパリで共通する十一名の画家についても、その出展作品にはいくつかの相違があった。日本で出品された七四点中三三点は共通して出展されているが、四一点は削除されて別の作品十五点が新たに付け加えられている。観覧していた際は、展示構成や規模は変化していても、共通して展示されている画家の作品にはそれほど違いがないように見受けられたので、改めてカタログで確認してみて少し意外な感じを受けた。どのような作品が変更されているのか詳しくみてみると、黒田清輝と浅井忠、そして岡本太郎に作品の入れ替えが多いことに気づいた。もちろんこのような展示作品の変更には、作品を所蔵している美術館の都合などさまざまな事情が存在するのだろうと思われる。しかし、黒田の帰国後の日本風洋画がなくなった替わりに《La lecture(読書)》(cat. 7)などの滞仏時の作品が加わっていること、浅井の日本画や山本芳翠の《浦島図》などの日本的画題の作品が展示されなかったことなどから、フランスで受け入れられ易い作品が集められたような印象を受けたが、これはいささか穿った見方だろうか。
また、美校・藝大の関係者ではないためか、日本での展覧会では取り上げられなかった坂本繁二郎と児島善三郎の作品が展示されたことも興味深い。淡くけぶるような色彩で馬を多く描いた坂本、確かな形態把握に琳派などから学んだデフォルメを加えた児島、どちらも個性のはっきりとした画風で会場でも存在感を放っていた。この二名の追加は、パリでの展示では美校・藝大との関連付けは薄れて、日本人洋画家とパリとの関わりのみに焦点が移ったということの象徴なのだろうか。
 会場は、日本での展示と比べるとやや小規模ではあったが、作品数が少なくなっていたこともあり、ゆったりと配置されて鑑賞しやすく、すっきりとした分かりやすい展示であった。また、展示室は通り抜け式ではなく、最後の展示室まで行くとまた同じ順路を戻ってくるような作りになっていた。その最後の部屋の一番奥に、本展のハイライトとして展示されていたのが藤田嗣治の《Cinq nus(5人の裸婦)》(cat. 46)である。こうした配置には作品の大きさなども関係しているのだろうが、藤田の作品がパリでの展示の一番の目玉であることを如実に物語っていた。カタログの表紙も藤田の作品であるし、タイトルも「黒田から藤田へ」と変化し、本展での日本洋画の終着点が藤田であることを示している。フランスでの藤田の知名度を考えれば(藤田以外の日本人洋画家たちなどまず知られてもいないであろうし、実際に現地の人びとが大きな関心を払っていたのも藤田であることを会場で実感した)、展覧会の力点が日本での展示とは、全くと言ってよいほどずれてしまったことは致し方ないといえるのかもしれない。双方のカタログに互いの展覧会についての言及がないことを疑問に思っていたが、このように、主題や展示作品が半ば異なっていることがその理由かと思われる。ここで見られるのは、今後ますます増えていくことが予想される国際巡回展に起こりがちな問題点だといえるだろう。よく知られた藤田を中心とし、そこから他の画家たちへと観覧者の興味を広げていくという構成は、フランスの人々を動員するために、ある意味必要な変更であったのかもしれない。ただ、日仏で美術史的な条件が異なるとはいえ、日仏双方で展示するこのような機会にこそ、同一の主題・構成から彼我の隔たりを実感する試みがあってもよいのではないかと感じた。
カタログの図版としては、余白を全くなくし、ページ一面にプリントされたものや、2ページにまたがるものなど、全体的にフランス版の方が大版になっており、迫力や雰囲気が日本版カタログとはかなり異なる印象を受ける。しかし、同一の作品で比べて見ると、図版の質そのものは日本版の方が良いように感じる。比較しなければ分からない程度だが、フランス版では全体的に白っぽく、色が粗くなってしまっているのが残念な点である。日本版のカタログは、作家・作品解説や年表にはフランス語訳はないものの、作品名・総論・各章解説にはフランス語訳が付されている。一方、フランス版カタログは完全なるバイリンガルで、巻末にテキスト部分の日本語訳がまとめられている。作品図版と並列して解説が付けられていた日本版とは異なり、フランス版では作品解説は後方のページにまとめられ、作品図版に論文や章解説が入り混じって並置されるという形態をとっている。またフランス版では、日本版でのエッセイに代わり、次の4本の論文が収められている。荒屋鋪透氏《Grez-sur-Loing et le Japon : Kuroda Seiki et Asai Chû(グレー=シュル=ロワンと日本―黒田清輝と浅井忠)》、クリストフ・マルケ氏《La confrontation des artistes japonais avec l’ Occident : le cas d’ Asai Chû à l’ Exposition universelle de 1900(西洋と対峙した日本人美術家たち―一九〇〇年パリ万国博覧会における浅井忠の場合)》、林洋子氏《Sur les traces de Léonard Foujita Pour la realization des peintres murales de la Maison du Japon à Paris(藤田嗣治 パリ日本館の壁画への道のり)》、中島理壽氏《Les galeries de peintre du style occidental(yôga) au Japon Sur les traces de leurs origines(日本の洋画商―その草創期の歩み)》。小さな資料図版も折り込まれたこれらの論文はどれも充実した内容で、日本版カタログにも付されていればよかったと感じた。
全体として、日本とパリ、二つの展覧会の印象はかなり異なるものとなっていた。ただ、人もまばらなパリ会場の落ち着いた雰囲気は心地よく、いつまでもその場で作品を眺めていたい気持ちに駆られた。油彩画にはやはりヨーロッパの乾いた空気が合うのか、作品が日本で見るよりもクリアに、生き生きと透明感をもって見えた気がしたのは私の思い込みだろうか。多くの日本人画家たちが目指したパリの地で、ゆかりの作品を見ることができたという感慨がそのような気分をもたらしたのかもしれない。



(1) 「洋画」という語の成立過程、定義については、佐藤道信『「日本美術」誕生―近代日本の「ことば」と戦略』(講談社選書メチエ92、1996年)に詳しい。

(2) 新関公子「パリ留学と日本洋画のあゆみ」本展カタログ

(3) 〈パリと日本人画家〉という主題を持つ展覧会の推移については、今橋映子「日本人のパリをいかに語るか―近年の美術展覧会の動向から―」(『異邦人たちのパリ』展カタログ)に詳しい。

(4) 作品番号は、日本での展示に言及している場合は日本版カタログのもの、パリでの展示に言及している場合はフランス版カタログに依った。

(5) 区別のため、日本での展示はローマ数字、パリでの展示はアラビア数字で章番号を記す。


《展覧会データ》
「パリへ―洋画家たち百年の夢」展
東京藝術大学大学美術館(二〇〇七年四月十九日―六月十日)、新潟県立近代美術館(二〇〇七年六月二十三日―八月五日)、MOA美術館(二〇〇七年八月十七日―九月三十日)
カタログは新関公子、島津京、日本経済新聞社文化事業部編集、日本経済新聞社発行、二〇〇七年、総頁数二二九。
《de Kuroda à Foujita : Peintres Japonais à Paris(黒田から藤田へ―パリの日本人画家)》
パリ日本文化会館(二〇〇七年十月二十四日―二〇〇八年一月二十六日)
カタログはFragments International発行、二〇〇七年、総頁数一七一、ISBN : 978-2-917160-04-6


十二の旅:感性と経験のイギリス美術(94号掲載) 川島 健

川島健
執筆時 :広島大学大学院文学研究科准教授
雑誌情報 : 『比較文學研究』94号、2010年01月、172-175頁

イギリスの十二のアーチストの作品が「旅」というテーマのもとに集められた。栃木県立美術館、静岡県立美術館、富山県立美術館と世田谷美術館が所蔵する作品を持ち寄って企画されたこの展覧会は、二〇〇八年四月から二〇〇九年三月まで、それぞれの美術館を巡回し、世田谷美術館はその終着点であった。ジョン・コンスタブルやウィリアム・ターナーの伝統的な風景画からアンディ・コールズワージーやデヴィッド・ナッシュの自然を生かした造形作品まで、作品は制作年代順に展示されており、この展覧会に足を踏み入れたものは、様々なジャンルに刻まれた、様々な旅の軌跡と付き合うことになる。
本展覧会において、そのキーワードである「旅」はとてもゆるやかに定義されている。物理的な距離をゆく旅だけでなく、自らの幼年期の記憶を辿るような時間を逆行する旅もその定義に含まれている。展示の解説とカタログには各作家における「旅」の模様が述べられているが、千差万別な旅のあり方をまとめ、細分化するような提示はされていない。あえてこの場でその旅を作家ごとに細分化してみると以下の六つに分類されるだろう。

一) イギリス国内の旅(ジョン・コンスタブル)
二) ヨーロッパの旅(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーとベン・ニコルソン)
三) 幼年期への旅(アンソニー・グリーン)
四) 政治的理由によって強制された旅(モナ・ハトゥーム)
五) 偶然の旅(ボイル・ファミリー)
六) 日本への旅(チャールズ・ワーグマン、バーナード・リーチ、ヘンリー・ムーア、デヴィッド・ホックニー、デヴィッド・ナッシュ、アンディ・ゴールズワージー)

もちろんそれぞれの作家たちの多岐にわたる活動は、上記のような恣意的な分類に収められるものではない。例えばヘンリー・ムーアは日本に足を踏み入れたことはないのだが、その作品の日本での受容が「旅」と解釈され、本展覧会にその作品が展示されたのだ。
個々の作品は非常に興味深い。日本の山間部や沿岸部の自然に親しみながら、そこにある自然素材を最大限生かして作られるナッシュの奇妙な造形作品は、道具と工芸品、機能性と美的価値をそれぞれ連結しながらも、そのどちらにも属さない危うい魅力を持っている。また、自然の中にある規則性を浮かび上がらせることで成立するゴールズワージーの造形作品はアニミズムに接近しつつも、自然から強引に幾何学的美を引き出そうとする作為と暴力がそこには見え隠れする。単なる自然讃美に終わらない不気味さがそこにはある。
レバノン内戦が勃発したため、ロンドンとベイルートに引き裂かれた娘と母のやりとりを綴る、モナ・ハトゥームの映像作品では、母娘を引き離す暴力的な距離と、それと反比例するかのように密度を増す二人の親愛の情がコントラストを形成する。互いの近況を気遣う二人の会話は、否応なしに政治的問題を掠めていく。ボイル・ファミリーの作品も異色だ。ダーツを世界地図に投げ、任意に選定された場所に赴き、その地表を精密に再現する「ワールド・シリーズ」はボイル家の父母と二人の子供によるファミリー・ビジネスでもある。このような「旅」をハトゥームの「旅」と比較してみると興味深い。偶然に従う「旅」と政治によって強制される「旅」。また「家族」という共通項も二者を結びつける。一つの目的のために世界中を飛び回る家族の作り出す作品と、否応なく離れ離れに暮らす母と子の対話を記録する作品。このような二つの家族が出合い、二つの旅が交錯する場として本展覧会は創造されたのだろう。
各作家の「旅」との関わりは多種多様であり、全体を包括するにはやや強引な括りといえなくもない。この展覧会は「旅」というテーマのもとに作品が集められたというよりは、国内にある諸作品を一挙に展示するためにその主題がつけられたという印象を受けてしまう。このような戸惑いにおいて、この展覧会の立案から具体化までのプロセスに関心が向かうのは当然だろう。そもそもなぜ今「イギリス」なのか。なぜ「旅」なのか(1)。 そこで評者は、「十二の旅」展の企画と運営において中心的役割を担われた杉村浩哉氏(栃木県立美術館 特別研究員)にお会いし、詳細をうかがう機会を得た(二〇〇九年四月二十日 国立新美術館 地下一階カフェテリア・カレ)。以下、そのインタビューの内容をふくめて、日本におけるイギリス美術という文脈のなかに今回の展覧会を位置づけてみたい。

八十年代以降、日本におけるイギリスの現代美術は定期的、かつ組織的に紹介されてきた。一九八二年の「今日のイギリス美術」展(東京都美術館、栃木県立美術館、国立国際美術館、福岡市美術館、北海道立近代美術館)、一九九〇年の「イギリス美術は、いま」展(世田谷美術館、福岡市美術館、名古屋市美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、広島市現代美術館)、そして一九九七年の「リアル/ライフ イギリスの新しい美術」展(栃木県立美術館、福岡市美術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、芦屋市立美術博物館)というように、七、八年毎に組織的な巡回展が企画され、大きな反響を呼んできた。一方、イギリス現代美術は一九九〇年代に大きな変革期を迎える。ダミアン・ハーストに代表されるようなYBA(Young British Artists)が規制の枠組みを全く無視した作品を作り始め、その影響は美術界にとどまるものではなくなる。しかし日本においては、「リアル・ライフ」展を最後に、組織的なイギリス現代美術の紹介は途絶えてしまった。もちろんギャラリー単位での作品、作家紹介はされてきたが、断片的なものといわざるをえない。
「十二の旅」はこのような文化的な要請を満たすためになされてきた。しかしその実現にはふたつの問題があった。起案から実現まで約二年しかないという時間的な問題。そして限られた予算という経済的な問題。そこで「十二の旅」は「財団法人地域創造」に助成金の申請をする。この応募は採択されるのだが、展示する作品の七割から八割を所蔵作品が占めなければならないという制約を受けることになる。所蔵作だけで、イギリス美術の一断面を体系的に見せることは不可能である。そこで杉村氏は発想の転換をしたという。日本に現存するイギリス美術作品という制約をそのまま提示することである。そのような「歪んだ」美術史の提示は自虐的で自嘲的なものに見えるかもしれないが、両国の影響・受容関係の一端を垣間見せる契機にもなりうる。

杉村氏の話を参考にし、意図されたその「歪み」を通してこの展覧会を振り返ったとき、イギリスのモダニズムの彫刻家がほとんど紹介されない日本における、ヘンリー・ムーアへの例外的な偏愛や、ワーグマンやホックニーなどの「オリエンタリスト」の視線、あるいは自然を媒介にした文化交流などが透けて見える。ロンドンの大英美術館の所蔵作品の多くは植民地主義の産物だといわれているが、「十二の旅」はそのような簒奪の歴史に支えられているわけではない。むしろターナーやコンスタブルを購入し、ナッシュやゴールドワージーを長期招聘できる経済力に驚くべきであろう。作品そのものを見るとともに、日本のイギリスへ視線の歪んだあり方を見ることが「十二の旅」の正しい鑑賞方法となろう。
このような展覧会だからこそ、そのカタログの重要性は増す。それは教条的に一国の美術史を語る必要はないし、一人の美術家のキャリアをなぞる必要はない。日本がイギリス美術を眺めるときに生じる歪んだパースペクティブに根拠を与えるのがその役割となろう。「十二の旅」のカタログには、十二人の作家の展示作品と紹介、関連地図とともに、二編の論文が収められている。カタログの巻頭を飾る杉村氏の論文「十二の旅のもたらすもの」は、まずトニー・クラッグの九〇度回転させたブリテン島をかたどった彫刻「北から見たイギリス」に言及し、また作品を時系列的展示と狭義のテーマ系から解放したテート・モダンの試みに共鳴することで、「十二の旅」の理論的正当性を裏付ける点で抜かりはない。「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」と正式には呼ばれるべき国の形の歪みを、物理的また観念的に表象してきた芸術に追随するものとして「十二の旅」は位置づけられる。
もう一方の論文、杉野秀樹氏の「イギリス美術の一側面――メゾチントの流行と衰退」は「メゾチント」と呼ばれる版画技法が、ターナーとコンスタブルの作風に与えた影響を述べている。特殊な技法とその実作への影響を詳述する論文は、興味深い知識を授けてはくれるが、「旅」に関連づけて作品を解説する努力がなされていない。
また各作家の略歴と紹介の頁も、必ずしも旅に光をあてたものではない。例えばその作家生活において旅の占める割合が多かったことが予想されるターナーの作家紹介においても、日本での受容にそのほとんどが割かれており、ターナー自身の「旅」の性質と風景画の特質に触れていないのは残念である。幼年期の家族との記憶をさかのぼるアンソニー・グリーンの「旅」は、イギリスと日本をめぐる旅の言説の中では所在なさげである。巻末の作家資料は作家ごとにまとめられており、特に主要外国語文献は、専門家ではない美術鑑賞者にとっては十分であろう。それだけに十二組のアーチストの「旅」の軌跡を克明に記すこともなく、全体を包括するような旅の定義も提出されず、それぞれの旅をつなげる工夫もなされていないことが実に惜しい。
テート・モダンの革新性は既存の物語を拒否することであった。しかしそれは物語の不在ではなく、新たな物語へと開いていくことに他ならない。そして新たな物語のゲートとしてカタログがあることが理想的なのだ。「十二の旅」展が「歪み」を意図的に提示しているのは、現況において最上の戦略であろう。しかしその「歪み」の特殊性をより深く突き詰める試みがなされていないことが何よりも残念である。作品の解釈は別にしても、展覧会全体の意図が生のまま鑑賞者の手に委ねられている。
人員的問題とともに財政的問題などがかさみ、国内の美術館を巡る状況はますます厳しくなるといわれている。このような文化的苦境において、財団法人からの資金調達、国内美術館の緊密な連携など、「十二の旅」は美術館のあるべき方向を示した展覧会として評価できる。何よりも稀な「イギリス」の美術展の開催に関しては純粋に感謝を捧げたい。「イングランド」、「ブリテン」、「UK」など様々な名称とその混乱する指示対象の問題への配慮が見られなかったことなど望むべきことは多くあるが、それはないものねだりだろう。しかしその「イギリス」なるものの地理的境界、それを構成する人種の複雑さ、それが形成される歴史的経緯など問題などと絡めて作品を見せることは可能だったのではないか(2)。  「旅」というテーマであればこそ、様々な文脈を整理し、作品を配置する必要であろうが、それが足りないために、個性的な作品が相互に有機的な化学反応を起こすことなく、ただ自らのフレームにとどまったままである。作品が「旅」をしていない。
トニー・クラッグの「北から見たイギリス」には、左端(つまり北アイルランドの方向)からブリテン島を眺める直立した人の姿が見える。それはブリテン島の「転倒」と対照をなしながらも、その地図の、また「イギリス」という国の一つの見方を提示している(あくまでも「北」から見ることが重要なのだ)。「十二の旅」が私たちに残してくれたのは数編の切れ切れの地図であるが、それが「旅」へといざなう力はやや弱い。それは断片性を補う工夫がされていないからに他ならない。補助線としてのカタログの重要性を認識させる展覧会であった。
最後に、一九九七年以降、組織的な展覧会が行われなかったイギリス美術を紹介するためのパースペクティブを、素人の立場からいくつか提案したい。ダミアン・ハースト、トレイシー・エイミンらの「美術家のセレブ化」に貢献をしたYBAたちの作品を、その言動とともに紹介することは、芸術家のステータスの変遷を回顧することに貢献するであろう。また「クール・ブリタニア」と総称される、ブレア政権下の労働党の文化政策とそれに利用された様々なアーチストの関係を紹介するならば、政治とメディアの関係を考えるための大きなきっかけになるに違いない。作品そのものというよりは、作家をめぐる環境が問題になることが多い現代イギリス美術を知るための視点として、この二つの提案をして本稿を締めくくりたい(3)。

(1) 近年、イギリス・モダニズムを「移動」、「越境」などの視座から語る分析し、その境界の曖昧さを問いかける研究が盛んになりつつある。代表的なものとして以下のものを参照文献として挙げておく。Jed Esty, Shrinking Island: Modernism and National Culture in England, Princeton: Princeton University Press, 2003; Laura Doyle and Laura A. Winkiel (eds.), Geomodernisms: Race, Modernism, Modernity, Bloomington: Indiana University Press, 2005.

(2) この問題に関しては、イギリスにおけるカルチュラル・スタディーズの取り組みを無視することはできない。代表的なものとしてはPaul Gilroy, There Ain't No Black in the Union Jack: The Cultural Politics of Race and Nation, London: Routledge, 1992 をあげておきたい。

(3) このカタログ評の執筆にあたって、栃木県立美術館の杉村浩哉氏のお話が大変参考になった。お忙しいなかインタビューを快諾してくださった杉村氏にこの場を借りて改めて御礼申し上げたい。


[展覧会およびカタログ・データ]
「十二の旅:感性と経験のイギリス美術」展
栃木県立美術館(二〇〇八年四月二十七日~六月二十二日)、静岡県立美術館(二〇〇八年九月十二日~十月二十六日)、富山県立近代美術館(二〇〇八年十一月二日~十二月二十三日)、世田谷美術館(二〇〇九年一月十日~三月一日)。カタログ『十二の旅:感性と経験のイギリス美術』は、杉村浩哉、南美幸、新田建史、麻生惠子、杉野秀樹、遠藤望編集、十二の旅:感性と経験のイギリス美術展実行委員会発行、二〇〇八年、総頁数一八九。

「沖縄・プリズム1872-2008」展(94号掲載) 西田 桐子

西田桐子
執筆時 :東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報 : 『比較文學研究』94号、2010年01月、176-180頁

沖縄へと旅行する人に、「なぜ沖縄などに行かれるのですか?」、と問う者はいないだろう。それほどに沖縄の魅力は喧伝され、多くの人々を惹きつけている。日々、本土から沢山の人が、あくせくとした日常から解き放たれようと沖縄を目指す。そして沖縄へと向かう欲望は一度その地を訪れれば満たされるというものではない。ひとたび行けば、二度三度とますます行きたくなる。正直にいえば、筆者もそのような人間の一人である。わたしたちにとって、沖縄体験は沖縄の魅力を損なうものではなく、さらなる沖縄への渇望をかきたてる。
では、その魅力とは何だろうか。その魅力をエキゾティシズムを求める本土からの眼差しによってつくりあげられた虚像であると断ずることは易しい。そして、そのような側面を完全に否定できるとも思わない。だがこの展覧会の大きな意義は、そのようなニヒリスティックなものではなくむしろこの意欲的な展覧会が、そのようなステレオタイプに満ちた沖縄像が存在することを前提とした地点から出発していることである。「沖縄・プリズム1872-2008」展は、各人のつくりあげた沖縄像への自己批判を促すことはもちろんであるが、その先の根源的ではあるものの、ポストコロニアルの議論などを齧った学生にとっては盲点となりがちな問題を投げかけてくるのである。それは、「ではそのような沖縄像を批判した先に何が存在するのか」、という問題である。これはまさに、旅人として沖縄を愛する著者にも実存的な問題として突きつけられている。
カタログの序論に「沖縄・プリズム―隔たりを生きる倫理」と題された本展覧会の企画者でもある鈴木勝雄による論考がある。この素晴らしく刺激的で展覧会の意図が明確に記された論考は、「外来者の可能性」という節で締め括られる。そこにおいては、旅人を含む外来者の「異なるものへの飽くなき希求を支える源泉としてのエキゾティシズム」、「自分の情熱のうちに潜む正のエキゾティシズム」の可能性が示唆される。これは、東京国立近代美術館で開かれた「沖縄・プリズム1872-2008」展が、先に沖縄県立博物館・美術館で開かれた「沖縄文化の軌跡1872-2007」展と連動しているが、内地の人間によって企画されたものであることを考えるとある意味当然の帰結といえよう。
この連動していると同時に、コントラストをなす二つの展覧会の違いは、カタログそれ自体にも如実に表れていた。「沖縄・プリズム」展のカタログは、プラスティックのようでプリズムのように光を反射する黒いカバーで覆われている。その表表紙の下三分の一ほどから、凝った字体の「沖縄・プリズム1872-2008 OKINWA PRISMED」が白く浮きあがっている。B5サイズ200ページ弱、と持ち運ぶにも便利なサイズということもあるのだろうか、心弾むような軽やかさがこのカタログにはある。誤解を恐れずにいえば、非常に都会的な装丁であった。それに比べ、沖縄の方のカタログは大きくずっしりと重い。真白い表表紙には赤字で「沖縄文化の軌跡 1872-2007」と刻まれていて、東京版に比べると洒落っ気や洗練からは遠いがむしろ武骨とさえいえる清新な気合が漲っている。その表紙をひっくり返すと、裏表紙にはAサインや写真や絵画を含む沖縄文化のさまざまな側面を象徴する図像がモザイク状にちりばめられ、わたしたちを圧倒する。そして、中を開くと、沖縄県教育長の仲村守和氏の「あいさつ」(英語タイトルは”Foreword”)という文章がこの重量感の理由を説明してくれる。その「あいさつ」で仲村氏は、「本展は、1872年から現在までの沖縄文化総体を展示するもの」であり、「沖縄文化を紹介する展覧会」である、と述べる。大きさだけではなく頁数も東京のカタログの優に二倍を超えるこの重厚なカタログには、資料として、非常に詳細な沖縄近現代文化史年表や沖縄近現代文化用語集までもが付されている。また、全部で十七あるコラムには唄者から建築家まで多様な人々が文章を寄せ、その内容も染織からアイドルまでと幅広い。残念ながら筆者はこの展覧会を見ていないのだが、このカタログからだけでも十分に、「沖縄文化総体」を展覧会という形で紹介しようとした意気込みが伝わってくる。それに対して、「沖縄・プリズム」展は、その展覧会名とカタログの特徴のとおりに、生活者の視点だけではなく、外来者からの視点、その「正のエキゾティシズム」のみではなく負のエキゾティシズムも含む視点をもひっくるめて、プリズムのように乱反射する沖縄をみせてくれた。

「沖縄・プリズム」展を訪れたのは二〇〇八年十二月十六日であり、この日には展覧会関連イベントとして戯曲「人類館」が演劇集団「創造」によって上演され、著者はそちらにも足を運んだ。この舞台に込められた企画者の熱意とそこに込められた問題意識のアクチュアリティーは、この展覧会のそれらと重なり、双方への印象をより深いものにしたということを付け加えておく。
展覧会には、ルーマニア出身の留学生で一度も沖縄を訪れたことがない友人と訪れた。琉球国が琉球藩として日本に編入された一八七二年から現在までの沖縄に関する二百点を超える作品や資料を見ていると自らの沖縄体験が鮮やかに蘇り、訪れたことのある場所の写真を見てはその地にまつわる伝説を披露したり、友人の知らない沖縄の事物について説明を試みたりしながらゆったりと鑑賞した。そして、そのような鑑賞体験は、二人の異なるバックグラウンドを持つ鑑賞者が受け取ったものの違いについて考えさせ、著者に「体験するということ」への考察を促した。「体験するということ」はどのようなことであろうか。また自らの体験とそこから立ち上がってくる記憶やイメージは、その土地のステレオタイプとどのような関係にある(べきな)のだろうか。また、自らの体験と一口にいっても、耳から聞いた体験や、読んだ体験といった言語を媒介とする体験、見たものという視覚による体験、その他にもその土地で食べたものや嗅いだ空気などの視覚以外の五感による体験など、一元的には語れないものであるということを再度確認させられた。
そのように「体験するということ」への考察に鑑賞者を誘うような意図は、作品の選出や展示方法の上でも見られた。菊池契月の琉球美人の絵画を見ていたのに少し進むと太平洋戦争のプロパガンダ映画が上映されていたり、写真の隣には焼き物が鎮座していたりというように、作品の表現形態は多岐に渡り、三つの時代によって区分されたセクションに入り混じって展示されていた。鑑賞者は、次は何に出くわすのだろうと好奇心に溢れている旅人のように作品を鑑賞することができた。また、視覚芸術を中心とした展覧会であり、その見るという体験を重視するためだろうか、個々の作品に添えられた解説は必要最小限のものであったと記憶する。そのような解説の否定的な側面として、作品の中には「琉球弧を記録する会」による「島クトゥバ」を記録した映像のように個人的な記憶を刺激することによって大きな印象を残したものもあるが、美術に疎い筆者にとっては見方がわからず、カタログを参照しなければ漫然と眺めただけで終わってしまったであろうものも多かったことが挙げられよう。
先に述べたような、「沖縄体験」ならぬ「体験としての沖縄展」という意味で、照屋勇賢の「儲キティクーヨー、手紙アトカラ、銭カラドサチドー」というビデオ・インスタレーションは象徴的だった。引越ししたばかりなのか乱雑にダンボールが積みあがり、ハンバーガーを食べながらテレビでも見ていたのか、ゴミが散らかっている誰かの部屋なのか、そうでなければ地元の若者が何をするでもなくたまっている廃墟か倉庫のような空間に、数個のモニターがひっそりと点在する。そのモニターには、コンクリートで固められた小川とも呼べないような浅い水辺(実は、川底と見えるのはブルックリンの路上で、水は消火栓からの放水)に、折り紙で折られたような可愛らしい小船が流れてゆく映像が映し出されている。よく見ると、色とりどりの船には幾つものまたカラフルな国の旗がぶらさがっている。
 鑑賞者はそのような作品空間を通り抜けることによってその作品を体験し、自らの体を動かしモニターを覗き込むことによってその作品を鑑賞しなければならない。つまり、その作品をより深く味わおうとするならば、そこでは、能動的な身体の移動に加えて、空間全体を見るかモニターを注視するかという焦点の問題や、その小船の映像に何を読み込むかという解釈の問題に直面せざるをえない。逆にいうと、ただ眺めて「ふーん、船の映像か。」と通り過ぎることも可能である。もちろん、大なり小なりこれは他の全ての作品を鑑賞する場合にもあてはまるだろう。とはいえ、この作品は二次元と三次元の組み合わせで比較的広い空間を占めた作品であったことに加え、絵画や写真のようにある程度鑑賞し慣れたものではないことによって、展覧会を鑑賞するという体験と旅行者がその土地を旅行するという体験とが似通っているということを思い知らせてくれた。
解釈の面に踏み込めば、一見この作品と沖縄との関連がわからないことも意義深い。沖縄に関する展覧会であるから、私達はどうにかして沖縄との関連を読み込もうとする。このプロセスは、旅行者が、沖縄で体験した個々のエピソードをそれまでの自らの沖縄体験に照らして沖縄の文脈に位置づけようとする作業をし、その作業を通じてその人固有の沖縄像ができていく過程とよく似ている。この作品に関しては、その前に波多野哲朗の「サルサとチャンプルー Cuba/Okinawa」(ミュージアム編)という沖縄と移民をテーマにしたドキュメンタリーフィルムが展示されていたことによって、この体験の連鎖とも呼べるような沖縄像をつくりあげる思考の過程がより顕著に実感させられた。そのフィルムを見た後にはこの作品と沖縄の関連は自明の理のように浮かび上がる。流れに揺られ進んでゆく国旗を背負った小船は、戦前戦後と琉球と日本とアメリカと国の間を揺れ動いた沖縄の人々、また歴史的に多くの人々を海外に送り出してきた沖縄の人々を連想させるのである。
そのような解釈からは新たな視点が立ちあらわれてくる。ここにきて本土と沖縄という二者間の関係を問題とする二元論的な視点をはるかに超えて、世界の中の日本そして沖縄という、よりグローバルな視点が開けてくるのである。世界各国の国旗を掲げた船が流れに翻弄されたり互いに衝突したりしながらも、水の流れにのって進んでゆく。その姿は、どうしても船を人間に、流れを時の流れとする想像を掻き立てる。船はどこに流れてゆくのだろうか。沖縄について見に来たはずなのに、沖縄を見るためには世界を見なければならないという事態に気づかされる。と同時に、その見るべき世界は今や非常に複雑な様相を呈していることに目が眩むが、小船の流れるさまが軽やかでどことなく楽しげであることに救われる。しかし、グローバルな視点とグローバル化が同じではないこと、そしてそれらは必ずしも肯定できるものではない。そのようなことをも、ディスプレイのおかれている雑然と無個性な、個々の土地の持つ匂いのようなものを感じさせない空間は示していたのではないだろうか。
カタログに関して言えば、この作品の映像部分以外のインスタレーションがカタログに全く再現されていなかったことはどのように受け取るべきだろうか。カタログがおみやげものという性格を帯びている以上は展覧会が開催される前に刷り上っていなければならない。だからこの種のインスタレーションはカタログに反映されづらいという事情は納得できるが、この作品のインパクトを考えると残念であったという印象は否めない。映像作品やインスタレーションが(特に「沖縄の喚起力」と題された第三章には)かなりの数あったのだが、音や空間などの効果が大きいものや、その他にも作品の特性によっては実際の鑑賞体験と食い違う。しかし、再度考えてみると、それは身体経験の一回性やその体験の再現性といった問題を提起する。二次元に繰り広げられる図像と文字情報によるカタログと展覧会を訪れ作品を鑑賞するという体験とはどうしたって異なる。
体験するとはどういうことか。沖縄の人間として、本土の人間として、日本人として、芸術家として、生活者として、旅人として、そのような様々な位相をもつ一人の人間、その個人における記憶という次元においても、個々の人間を超えて集合的に形成され伝えられていくイメージやステレオタイプという次元においても、はたまたそのような体験を本の形における視覚情報へともう一度変換するカタログによる記録という次元においても、体験を保存するということはどのようなことなのか。そして、それらの保存された体験やあるいは現在進行形の体験をもとに、わたしたちはどのような沖縄像をつくらなければ(または、つくり続けなければ)ならないのだろうか。


[沖縄・プリズム 1872-2008 展]
東京国立近代美術館(2008年10月31日-12月21日).カタログは,東京国立近代美術館編集・発行,2008年,B5版,総頁数175頁.

[沖縄文化の軌跡 1872-2007 展]
沖縄県立博物館・美術館(2007年11月1日-2008年2月24日).カタログは,沖縄県立博物館・美術館発行,2007年,A4版,総頁数407頁.

2013年2月 3日

「江戸の粋・明治の技 柴田是真の漆×絵」展(96号掲載)定村来人

定村来人
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』96号、2011年6月、151-156頁

 「江戸の粋・明治の技 柴田是真の漆×絵」展は、絵画67点、漆工品54点、合わせて111点で構成され、戦後国内で開かれた柴田是真の作品展としては最大規模のものとなった。(1) 東京日本橋にある三井記念美術館で開催された後、京都と富山を巡回し、各地でおよそ二カ月にわたって公開されている。この展覧会は、アメリカ・テキサス州在住のキャサリン&トーマス・エドソン夫妻のコレクションから71点を日本で初公開する里帰り展であり、合わせて国内に所蔵される是真の作品から優品40点が展示された。
 本展覧会のひとつの目的は、充実した海外コレクションの紹介を通して、是真という作家の再評価を促すことである。是真は長らく日本国内よりも欧米で高く評価され、その作品の多くが海外の美術館に所蔵されている。まとまった数の是真作品を国内で目にする機会は、これまで決して多くなかった。(2) 日本で是真が積極的に評価されてこなかった背景として、本展の監修者安村敏信氏は美術史研究における是真の扱いにくさを指摘する。(3) 蒔絵師であると同時に画師でもあり、幕末から明治にかけて時代をまたいで作品を作り続けた是真[1807~1891]は、ジャンル分けや時代区分を重視してきた美術史において長く見過ごされてきたというのである。
 欧米では、18世紀の異国趣味に端を発する「ジャパン」(漆器)への関心が、19世紀後半の万国博覧会の時代を経て、現代にまで受け継がれている。是真の作品は、1873年のウィーン万博、1876年のフィラデルフィア万博、1889年のパリ万博に出品され、賞牌を受けた。また、19世紀後半の欧米では、伝統的な美術観に対抗する新しい価値観の拠り所の一つとして日本美術が人気を集めた。欧米で是真のような作家が積極的に評価される下地には、このような歴史的流れもあるだろう。
 このような関心の違いは、エドソン・コレクションのあり方にも反映されている。エドソン夫妻はまず画師としての是真を知り、それから漆工作品も集めるようになった。是真が描く滝の絵に惹かれてコレクションを始めた夫妻は、「遊び心」や「自然を愛する心」といった、絵画、漆工作品に通底する作家のテーマ性を是真の中に見出したのである。「一人の作家に焦点を当てて収集するには時間を要しますが、是真という人物の中に、私たちが時間をかけてこたえていきたくなる人間性を発見したのです」(4) というエドソン夫妻によって集められたコレクションは、絵画、工芸といった区分にとらわれずに柴田是真という作家を再発見する、またとない機会を提供してくれた。
 安村氏は、是真作品の愛好者が日本に育たなかったもうひとつの理由として、蒔絵の技法に馴染みがない一般の観客には是真の巧みさ、その作品の面白さが解りにくいという点を挙げている。(5) 本稿では、是真芸術の魅力を伝え、再評価のきっかけとするために、この展覧会およびカタログが是真作品をどのように見せようとしているかを、「是真を展示する」ということが抱える問題とともに検討する。

 まず気が付くのは、本展覧会が意識的に是真の造形的越境性を展示内容の中で示そうとしていることである。立体と平面にまたがり、どちらが主でどちらが副ということもなく制作を行った是真の創作的広がりを、漆工品と絵画を同じ比重で扱うことで視覚的に印象付けようとようとする。このことは、過去の展覧会に出品された漆工品と絵画の比率と比べてみても明らかである。(6) 展覧会タイトルに使われた「漆×絵」という言葉は、工芸か絵画かというジャンルにこだわるのではなく、蒔絵の技術と画術の両方を駆使して漆と絵の世界を×=クロスさせた是真独自の制作方法にこだわりながら、その作品世界全体を捉えようとする意図の表れであろう。
 展覧会は大きく分けて二部構成になっている。前半ではエドソン・コレクションを、立体である漆工作品を展示した「漆」の部屋(展示室1と2)と平面作品つまり絵画を展示した「絵・漆絵」の部屋(展示室4と5)とに分けて紹介する。是真芸術の基礎として蒔絵の技術があり、それが絵画の世界に直接に結びついたとき、漆絵としてどのように展開したかという流れをエドソン・コレクションで見せ、後半の国内コレクションを集めた「漆×絵」の部屋(展示室7)で、漆工作品と絵画作品を並列展示している。比較的小さなスペースの展示室3と6は、それぞれ、エドソン・コレクションの漆工品の部から絵画の部に入る前と、エドソン・コレクションから国内コレクションに入る前の、小休符のような役割を果たしている。展示室3に設置された、如庵の室内を再現した空間には是真の漆器と掛軸が飾られ、展示室6には印籠と根付の他に、現代の蒔絵師によって再現された三種の変塗手板の製作工程を紹介するパネルが設置されている。
 この展覧会の最も大きな特徴であり、成果とも言えるのが、蒔絵の技法についての専門知識をもたない一般の観客に向かっても是真芸術への入り口を開くというねらいの下に、展覧会やそのカタログを構成した点である。多様な技法を駆使して作られた是真作品の解説には、「金薄肉高蒔絵」「黒石目塗」「青銅塗」「茶道塗」といった、見慣れない用語が並ぶ。しかし、あえて長い解説文を付け、細かく区別される技法や材料の違いを記したのは、蒔絵の技法を知ることなくしては是真芸術の心髄を理解することはできないという、監修者の信念があるからに違いない。(7) 会場入り口では、出品目録の他に「漆工用語解説」として、五十音順に並んだ45の専門用語の解説(A3判二折両面印刷、四頁)が配布された。この用語リストは、作品一つ一つに付された丁寧な解説を読む際にどうしても避けられない蒔絵技術の専門用語を理解する簡便な手助けとなる。そこには、ある技法を施すための具体的な作業プロセスなどが簡単に説明されているが、同時にその説明を通して、ひとつの技法の中にとてつもない労力と時間が注がれている事実が鑑賞者にも明らかになる。
 また、作品に付された解説とは別に、会場の24作品を取り上げた約30分の音声ガイドも鑑賞の手引きとして丁寧につくられている。それぞれの作品に使われた技法や意匠の解説に加えて、是真の経歴や明治という新しい時代の要請など、作品成立の背景的要素にも触れた立体的な説明を聞くことができる。文字から作品へと目をせわしなく動かす解説文とは違って、耳で聞きながら作品を見ることができる音声ガイドの利点を活かし、「表面の色にご注目ください」と、まず深い色合いに注目させながらその色を生みだす変塗技法の説明をするなど、鑑賞者の目を導くように解説がされていた。

 以上のような工夫によって知識的側面から作品鑑賞を豊かなものにしているにも関わらず、本展覧会もまた、美術館において日本美術を展示、鑑賞することの根本的な問題にぶつからざるを得なかった。この展覧会の意図が、質の高いコレクションから選ばれた優品を実際に目にし、その魅力に触れることで是真芸術への関心を高めようとするものであったからこそ、より痛切に感じられる問題でもある。
 近代的美術館や博物館では、美術品や工芸品が「展示される」ものとなり、鑑賞者は「観客」として、その鑑賞方法は見る行為に特化される。展示された作品は、傷みやすい日本美術の場合は特に、展示ケースの奥の暗い照明の中に置かれ、触れられないどころか近づくこともままならない、遠い存在となった。自分の息でガラスが曇ったり、額や鼻をガラスにぶつけたりしながら、何度も瞬きをしては目を細めて、必死でガラスの向こうの作品を見ようとした経験がある人は少なくないだろう。今回の会場でも、見ている自分の姿が展示ケースに反射し、作品が見えにくいものがあった。黒を基調とし、光の反射によって表情を変える青海波塗が施された《柳に水車文重箱》(E-13)は、ガラスケースに映るリフレクションの問題が最も強く感じられ、この作品がエドソン・コレクションのハイライトとしてポスターやチラシにも使われていたこともあって、なおさら残念だった。
 また、立体作品において問題となるのが、ケースの中で固定された作品は限られた視点から決められた部分しか見ることができないという点である。ルーペや鏡を設置したり、見せることのできない部分の写真を参考に置いたりするなどの配慮はあったが、やはりもどかしさが残る。展示ケースの問題は、作品が公共の場に展示され、不特定多数の観客に鑑賞されるようになった瞬間からある程度仕方のないことと言えよう。現在ではできるだけ鑑賞を妨げないような低反射ガラスを使った展示ケースも開発され、美術館によっては、照度を落としても細部までよく見えるLED(発光ダイオード)の照明を取り入れるなど、ライティングの工夫もされている。しかし、いずれにしてもこのように「見る」ことに限定された鑑賞方法によって、鑑賞者が是真の作品が提供する喜び、楽しみ、そして驚きから遠ざけられていることは明らかな事実である。
 是真作品のほとんどは、このようなケースの中に入れられるために作られたものではない。すべてが日常的な生活の道具とは言えないまでも、個人の生活空間の中で楽しまれるものであったことは確かである。持ち主の手の中でその感触、材質が楽しまれ、あらゆる角度から眺められ、器なら蓋を外し、中を覗いた時の驚きや楽しみがあったはずだ。驚きという点では、是真の「だまし漆器」(8) がよい例だろう。金属や陶器、あるいは木などの重い素材でできているように見せかけて、実際は紙の張り子に変塗を施したという作品がいくつかある。これらは、お茶の席などで客人が金属あるいは陶器と思って持ち上げてみて、その軽さに吃驚することを狙ったと思われる、いたずら心にあふれた作品である。直接その物に触れることのできない現代の観客は、是真によって仕組まれたこのような楽しみから遠ざけられている。解説を行う研究者や学芸員によって種明かしをされ、想像力を働かせてその楽しみを追体験しようとしてみるほかないのである。
 近代的な展示という鑑賞方法の中で、是真のような作家による作品は、鑑賞者との親密な関係を失ってしまった。是真の作品が現代の一般観衆に親しまれてこなかった最も大きな理由は、安村氏が指摘するように蒔絵技法が複雑で難解なものであるということ以上に、是真の作品がガラスケース入りの美術館展示には向かず、個人観賞に最も適しているということ、つまり「蒐集家のための作家」であるということなのではないだろうか。「是真を展示する」ということは、近代的な展示・鑑賞の方法が日本の伝統的な美術品との関係において抱えるチャレンジに向き合うことだといってもいい。

 本展覧会は、課題は抱えつつも、この日本美術を展示するという問題に意識的であることは間違いない。三井記念美術館内の如庵を再現した空間に是真作品を並べた展示室3は新鮮であり、モノが息を吹き返したようであった。解説を充実させ、「だまし漆器」などを取り上げながら、是真の作品がどのように楽しまれたのかということを伝えようとしたのも、鑑賞者の想像の中で作品が展示ケースから飛び出してくるように働きかけるためであろう。
 本展覧会のカタログは、展示会場での限界を補うものであり、学術資料としても充実している。しっかりとディテールを見せるように撮影された写真図版は、一頁に一点または二点と、大きくはっきり印刷され、時には部分を拡大した詳細な写真も付されている。《宝尽文料紙箱》(E-4)などは、作品の全体を映したものに始まり、蓋表、蓋裏、四側面それぞれの方向から撮影された写真が載せられている。手の中で自由に動かすことはできないが、展示会場では得られなかった視点の自由と明快さがある。過去の是真展のカタログと比べても、質の高い写真図版と見やすいレイアウトが印象的である。
 会場で読むことができた用語解説はカタログにも収録されており、作品解説は会場のそれよりも詳細にわたる。(9) カタログの冒頭には図版ページに先立って、是真の生涯に沿って作品の変遷を解説した安村敏信氏の論考が載る。作品図版を一通り見終えると、是真の絵画作品、漆工作品に共通して見られる「だまし」の要素に着目した小林裕子氏の論考によって、「トリックアート」として是真芸術を楽しむ視点が提供されている。これらの二本の論文と作品解説、展覧会出品目録が英訳されていることは高く評価したいが、用語解説と是真略年譜が訳出されていないのは残念である。(10)
 しかし、このカタログの学術資料としての堅実さは、参考文献表に最もよく表れている。明治時代から現在までの是真関係文献102種をリストアップし、戦後初めて開かれた1980年の是真展のカタログに載せられた文献リストをより充実させたものになっている。(11)その他に、エドソン・コレクションの漆工銘の一覧が収録される。

 今回最も印象に残った作品の一つに、エドソン・コレクションの《波に千鳥角盆》(E-17)がある。縦24.1cm、横16.8cm、高さ1.59cmの長方形の盆は、ぱっと見には黒一色の平面的な作品である。しかし、近づいて見てみると、その小さな空間に広がる大きな世界に思わず息を飲む。
 黒一色だと思った表面は、ざらっとした感触に鈍い光を含んだ地(石目をつけた青銅塗地)に、しっとりと艶のある波文(青海波塗)が施されたもので、小さな銀の光となった千鳥(金貝)が波間を横切っている。細い線で幾重にも重ねられた波模様は、うねり、盛り上がり、吸い込まれ、大きな水の流れとなって迫ってくる。水しぶきは高く舞い上がり、大気中へ分散していく瞬間に、一瞬動きを止めたかのようである。押し寄せる波に飲み込まれそうになりながら、小鳥たちは列になって羽ばたき、空へと上昇を試みる。様々な技法が異なる事象を描き出し、技術が表現となって、モノとしての物理的制限を超えた想像空間を作り出す。かつてこの盆を手にした人は、自分の手の中で一気に展開する世界の大きさに目眩を覚えたのではなかろうか。
 是真芸術の再評価は、美術館という展示スペースでの日本美術の鑑賞方法に批判的な目を向け、カタログの写真図版や文字資料をいかに活用してモノそのものの展示と有機的に結び付けることができるかを考える良いきっかけとなるだろう。


[展覧会およびカタログ情報]
「江戸の粋・明治の技 柴田是真の漆×絵」展
三井記念美術館(2009年12月5日~2010年2月7日)、相国寺承天閣美術館(4月3日~6月6日)、富山県水墨美術館(6月25日~8月22日)。カタログは、日本経済新聞社編集・発行、2009~2010年、総頁数264。


【註】
(1) 戦後国内で開かれた柴田是真展を以下に挙げる。1980年3月9日~4月6日「幕末・明治の精華―絵画と漆工の世界―」板橋区立美術館(絵画44点、漆工品11点)、1998年5月20日~6月28日「明治の宝 柴田是真」(ナセル・ハリリ・コレクション)三島大社宝物館(絵画12点、漆工品48点)、1999年10月2日~11月1日、同展が富山佐藤美術館に巡回、2001年11月10日~22日「江戸の生活文化 絵師・蒔絵師柴田是真の視座」(絵画15点、下絵14点、漆工品5点)、2005年6月11日~8月7日「柴田是真 明治宮殿の天井画と写生図」東京藝術大学美術館(天井画下絵112点、写生帖・粉本類95冊)、2007年7月13日~19日「柴田是真生誕二百年展」ギャラリー竹柳堂(絵画11点、漆工品32点、その他7点)。
(2) 註1参照。
(3) 本展覧会カタログ、8頁。
(4) 同右、5頁。
(5) 安村敏信監修『柴田是真 幕末・明治に咲いた漆芸の超絶技巧』別冊太陽163、平凡社、2009年、五頁。
(6) 註1参照。
(7) 安村、5頁。
(8) 本展覧会カタログ、178頁。
(9) 柴田是真生誕二百年展」のカタログに載せられた高尾曜氏による作品解説は、特に漆器作品の解説が充実している。
(10) 柴田是真 明治宮殿の天井画と写生図」展のカタログは、作品一覧表、論文のみならず、見出しから凡例、奥付に至るまで徹底して日英バイリンガルになっている。
(11)「幕末・明治の精華―絵画と漆工の世界―」展のカタログには、安村敏信氏によって柴田是真研究の現状が示されると同時に66種の参考文献が挙げられている。

「異色の芸術家兄弟――橋本平八と北園克衛」展(97号掲載)水野太朗

水野太朗
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』97号、2012年10月、157-164頁


 「異色の芸術家兄弟――橋本平八と北園克衛」展は、木彫を中心に優れた作品を残し、日本近代彫刻の歴史にその名を刻んだ橋本平八(一八九七~一九三五年)と、モダニズムの詩風を展開し、日本近代詩の歴史にその名を記した北園克衛(一九〇二~一九七八年)の二人の芸術家兄弟を主題として、それぞれの生涯とその作品を網羅的に紹介し、かつ二人の交流の意味を積極的に見出そうとした意欲的な展覧会であった。兄弟の関係性に焦点を合わせることで両者の作品を改めて捉え直そうとした本展の試みは、複数の対象について比較と考察を行い、その関係を明らかにしてゆく比較文学の営みにも通ずるものがある。とりわけ、橋本と北園のそれぞれが有する独自性と共通性を、数多くの展示品とともにつぶさに示しつつ、同時に企画展としての総合的な均衡にも入念な配慮を施していた本展覧会の構成は、その図録も含めて示唆に富んだものであった。以下、今回の展覧会および図録についての私見を、順を追って述べてゆくことにしたい。


 本展覧会は、三重県立美術館および世田谷美術館の共催によって行われた。まず、三重県立美術館における展示が二〇一〇年の八月初旬から十月中旬にかけて開催され、次いで、世田谷美術館での展示が十月下旬から十二月中旬までの期間において実施された。その内容は高い評価を受け、美術館連絡協議会より同年の美連協大賞を授与されている。
 展覧会の一方の主催者であった三重県立美術館は、橋本平八が三重県朝熊の出身という縁もあり、今回の展示に先立って、一九八五年「橋本平八と円空」展を開いている。橋本平八の没後五十周年と開館三周年を記念して執り行われたこの展覧会は、橋本の作品を企画の中心に据えるとともに、その木彫に大きな影響を与えた円空仏を多数紹介し、併せて平安期の鉈彫像や、高村光雲、平櫛田中ら近現代の彫刻家による木彫作品を展示することによって、日本の木彫芸術の系譜を示すという明確な目標を掲げていた。図録『橋本平八と円空――木彫・鉈彫の系譜』を繙いてみても、そうした企画の意図は十分に受け取ることができよう。同書には所収論文として、(一)生家での境遇から、上京後佐藤朝山に師事した修練期、朝熊に帰郷して死没するまでの成熟期を編年的に紹介した森本孝の「橋本平八の生涯」、(二)鑿痕の精緻な分析を試みるなど、鉈彫と円空仏についての歴史的経緯や造形的・図像的研究を示した毛利伊知郎の「鉈彫像と円空」、(三)菅江真澄の紀行文『真澄遊覧記』に見られる円空仏の描写を紹介した山口泰弘の「菅江真澄のみた円空」の計三編が収録されており、それらに付随する形で「橋本平八年譜」、「円空年譜」および「近・現代彫刻史年譜」が資料として編まれている。こうした図録の構成は、一九八五年の展覧会が、同館の所蔵する多数の橋本平八コレクションを企画の主軸とする一方で、円空と日本木彫史に対しても相当の比重を置いていたことを示していよう。同展での橋本に対する視点はこのような主題のもとに絞り込まれていたことから、そのぶん実弟・北園克衛についての言及は、比較的限定されたものであったようだ。実際、図録の内容を確認しても、北園克衛の名は、橋本平八の幼少時代の証言者としてわずかに登場する程度に留まっている。
 今回の「橋本平八と北園克衛」展は、三重県立美術館にとっておよそ四半世紀ぶりの、橋本平八に関する展覧会となったが、北園との関係に主眼が置かれた本展の展示および図録の内容は、前回のものと比べると様々な点が刷新されている。たとえば、今回の図録に収録された「橋本平八・略年譜」などは、前回のそれとは編集の方針を異にしており、単に橋本の一般的な事績を示すに留まらず、北園との繋がりを示す事項が、日記や書簡等の記録をもとに、いくつも紹介されている。本展覧会の橋本平八の部は、先の展示にも参加した三重県立美術館学芸員の毛利伊知郎氏を中心として企画が進められたが、同氏は論文「橋本平八――作品と思想」、橋本・北園両者の関係について整理した論考「兄と弟」の執筆を担ったほか、さらに、橋本関連年譜・文献目録の編集まで担当するなど、図録の成功においても重要な役割を果たしている。
 一方、北園克衛の部の企画については、世田谷美術館学芸員・野田尚稔氏の寄与するところが大きい。野田氏はハーバード大学エドウィン・O・ライシャワー日本研究所研究員のジョン・ソルト John Solt 氏と交渉を重ね、ソルト氏が一九八〇年代半ばに来日した際収集した書籍・パンフレット・書簡・バッジ類など、千八百点にも及ぶコレクションをもとにして、今回の展示を実現させるところにまでこぎつけている。ソルト氏は同大学で長年にわたって北園の研究をしており、Shredding the Tapestry of Meaning: The Poetry and Poetics of Kitasono Katue(田口哲也編訳『北園克衛の詩と詩学――意味のタペストリーを細断する』(思潮社、二〇一〇年))を著したことでも知られるが、その同氏が持つ多数の所蔵品が整理された形で、このたび日本において日の目を見るに至ったことは、それ自体大きな意義があったと言えよう。


 筆者は二〇一〇年十二月五日、世田谷美術館を訪ね、その展示を鑑賞した。三重県立美術館の展示を鑑賞できなかったことは惜しまれるが、ここでは筆者が直接目にした世田谷美術館での展示の様子について、その記録を留めておくことにしたい。
 世田谷美術館は緑豊かな砧公園の一角にある。当日は冬の日差しが穏やかに降り注ぎ、子どもたちの歓声が多く聞かれた。館内は混み合っておらず、落ち着いた雰囲気の中で、一つ一つの作品を入念に鑑賞することができた。
 展示の構成は、明確な部立てこそされていなかったものの、実質的には橋本平八の部と北園克衛の部に分けられていた。両者の作品はそれぞれ別個にまとめられており、まず橋本の作品を全て鑑賞したのち、次に北園の作品へと移ってゆく形になっていた。二つの部は基本的には独立していたが、橋本の部から北園の部に移行する、いわば区切りにあたる部屋には、北園克衛がその成立と出版に大きく関与した橋本の遺稿集『純粋彫刻論』(昭森社、一九四二年)を展示するなど、兄弟の関係を窺い知ることができる展示品が多く配置され、「兄から弟へ」という鑑賞の流れを自然に繋ぐ工夫が見られた。全体としてキャプションによる解説は少なく、橋本平八や北園克衛の人物紹介や作品解釈などもほとんど見られなかった。兄弟展という企画の基本方針そのものは確固として存在していたが、それを前面に出すことで、来場者の鑑賞の方向性を限定ないし誘導することは、意識的に控えられていたようである。
 橋本の部については、出品点数の多い彫刻がやはり展示の中核をなし、掛軸や書簡がその周囲に配置されていた。配置の上でとりわけ印象的であったのは、入場してすぐ目に飛び込んでくる《裸形少年像》、《少女立像》および《成女身》の三像が立ち並ぶ姿であった。これらの像は台座も含めて、すべて一三五~一八〇センチのほぼ等身大の立像であり、部屋の中央にあって十分な存在感を示していた。その周囲には《少女立像下図》や《裸形少年像下図》といった彫刻作品に対応する下絵が展示され、これもまた強く興味をひくものであった。下絵と彫像とを見比べることによって、相違点を探したり、制作の過程を想像したりすることが可能となり、鑑賞の楽しみが増した。こうした彫像と下絵の並置は《兎》、《双鶴》など二十組以上の作品でなされており、展示の大きな魅力となっていたように思われる。ひとつ欲を言うならば、下絵の書入れや掛軸の讃、書簡などの中には、しばしば判読の難しいものがあったことから、鑑賞の手助けとして、適宜翻字を施す配慮があっても良かったのではないか。
 北園の部については、詩集や雑誌などの書籍類が見開きの形で多く展示されていたほか、書簡も相当数が展示され、スライドや映像資料も用意されていた。書籍を中心とした展示はともすれば単調になりがちであるが、世田谷美術館では、鑑賞者の眼を楽しませることが常に意識されており、たとえば詩作品の紹介に際しては、北園のモダニズム詩のなかでも特に図像的な作品や、極端な改行を行っている作品など、視覚的効果の大きい作品を選んだり、北園のデザインした表紙やカットを適宜織り交ぜたりするなど、企画者側の工夫を凝らした跡が見受けられた。独特の意匠が目を引く後期北園の「プラスティック・ポエム」に相当の空間を割いていたことも特徴的である。書簡等の翻字の問題については橋本の場合と同様だが、それでも一部の英文の手紙には内容を要約した解説を付けるなど、一定の配慮があった。先にも述べたように、本展覧会はキャプションによる解説を最小限にとどめており、キャプションの多くは北園の詩句やメッセージのみを引用した簡素なものであった。来場者の自由な鑑賞を妨げないという意味では、こうした措置も納得のゆくものではあるが、北園の詩風が決して平易なものではないことを考慮に入れれば、もう一歩踏み込んだ説明や解釈を加え、鑑賞の一助となるような解説を添えてもあるいは良かったのかもしれない。


 展覧会の様子を紹介したところで、図録についてもその特筆すべき点をいくつか述べてみたい。まず、装丁・デザインの面では、一貫して橋本と北園の一方に偏らないことを強く意識した造りになっている。たとえば、本書は橋本平八の部を右開き、北園克衛の部を左開きとする両開きの形式を採ることによって、一方が先に回り、他方が後に続く形を避けている。また、分冊にしなかったことも「兄弟展」であることの意義を反映させた結果と見なすことができよう。図録の中央に据えられた論文「兄と弟」は、橋本と北園の交わりについて述べたその内容のみならず、一冊の本としての構成を考えたときにも、ちょうど右開きの橋本の部の末尾と、左開きの北園の部の末尾を繋ぐような形となっており、企画の趣旨とうまく合致している。
 分量についても、橋本の部と北園の部のそれぞれのページ数は、やはり構成上の均衡からほぼ等量になるよう配分されている。橋本平八の収録点数は彫刻八十七点、絵画・構想図五十七点、関連資料二十五点の計百六十二点であるが、対する北園克衛の方は総数七百二十八点を数える。資料の内容を考慮せず、収録点数のみを単純に比較することはできないとはいえ、二者間の数量の差にこれだけの開きがあると、これらをほぼ同じページ分量に収めるのは難しかったのではないか。両者のレイアウトに注目すると、橋本の部は北園の部に比べて図版が大きく余白も広い。無論レイアウトは収録点数の多寡のみによって決定されるものではないが、本展の図録の場合、ページ数を橋本の部と北園の部で等分する形にしたことが、紙面の構成にも影響を及ぼしたと見ておそらく間違いあるまい。北園七百二十八点の内訳は、ソルト・コレクション、多摩美術大学図書館蔵、その他の美術館・個人蔵がおよそ四対二対一となっているが、約千八百点からなるソルト・コレクションが四百点程度に絞り込まれていることも、ページ分量の制約と全く無縁ではないように思われる。図録の構成にせよ、資料の取捨選択にせよ、これらは基本的に編集者の裁量に委ねられるべきであろうが、学術上の見地からは、今回選から漏れた北園関連資料についても、他日しかるべき形で公開されることを期待したい。
 このような両者における分量の均衡の調節は、文献目録においても行われている。もともと彫刻を活計の道とし齢三十八歳でこの世を去った橋本平八の著作と、文筆を本業とし長寿を全うした北園克衛の著作の間には大きな量の隔たりがある。そのうえ、研究書・論文等に関しても、未だにあまり蓄積のない橋本と、相当数が存在する北園とではその数量に差異が見られるが、図録の文献目録では橋本に合わせる形でどちらも一ページに収められている。北園の関連文献については、私家版ではあるが、金澤一志氏による『北園克衛書誌』(第四版、二〇〇九年)が既にまとめられており、実際上の問題として、図録に北園関係の書誌情報を全て載せるのは現実的ではないかもしれない。しかしながら、北園の文献目録を、橋本のそれと全く同じ紙幅に収めたことは、かえってその実情をわかりにくくしてしまったようにも思われ、構成上の問題との兼ね合いの難しさを感じさせた。
 レイアウトの問題に話を戻せば、本書が橋本の部に縦書きを、北園の部に横書きを選択している点も特徴的であった。北園自身が発表したいくつかの詩集や寄稿した雑誌を含め、近代日本の文芸誌・詩誌の多くが縦書きであったことを踏まえると、詩作品を主とする北園の部に縦書きを用い、彫刻作品を主とする橋本の部に横書きを用いる選択肢もあり得たように思う。その一方で、橋本の資料のうち、画讃・書簡・下絵の構想案などに記された橋本自身の文章はすべて縦書きであり、また、北園のモダニズム詩の一部や海外の詩人と交わした英文書簡などは横書きであることを考えれば、本書の編集方針にも妥当性はある。この点は好みの問題ということになるだろうか。
 内容の点では、章立ての構成について特に言及しておきたい。橋本平八の部は、第一章「彫刻」、第二章「絵画、構想図」および第三章「関連資料――円空関係資料/日記と写生帖/遺著」の三章構成をとっている。分野ごとに区分けした比較的簡素な章立てといえよう。章と章の区切りでページを改めず、前章の末尾と次章の先頭が連続しているため、章立てそのものが読み手にとってそれほど意識されない。第一章「彫刻」の章の図版は概ね時系列順に配置されており、橋本の作風の変遷をページを繰りながら順に追ってゆくことができる。これは、第一章のすぐ前に掲げられた毛利伊知郎氏の論文「橋本平八――作品と思想」が、橋本の代表作の見方を編年的に解説していることとあいまって、読者が橋本平八の作品世界に円滑に入ってゆける大きな要因となっている。この毛利氏の論文は内容の点でも、歴史的な解釈と技術的な分析の両面において、簡にして要を得たものであった。全体的に素朴ではあるが見やすく洗練されているというのが橋本平八の部の印象である。ただ、分野別の章構成をとったことによって、世田谷美術館の展示で見られたような彫刻作品と下絵との対比は楽しみづらくなっており、その点は少々残念であった。
 一方、北園克衛の部は、第一章「橋本健吉から北園克衛へ」、第二章「『VOU』:一九三五―一九四二」、第三章「海外の詩人との交流」、第四章「戦後の活動」、第五章「『VOU』:一九四六―一九七八」、第六章「プラスティック・ポエム」および第七章「デザイン・ワーク」の全七章から成っている。こちらは主として時系列に沿いつつ、分野の区分にも目配りした構成といえよう。会場での展示では実現されなかった図録のみの特典として、一九三五年から北園が編集・レイアウトを担当した同人誌『VOU』全百六十号の表紙をすべて掲載してみせたことなど、見どころは多い。今回、北園の多岐にわたる資料を体系的に展示することは大変困難な仕事であったと推察され、実際のところ世田谷美術館の展示においては、その方針が明確に見えにくい部分もあったが、図録にはこうした難しい部分を克服しようとした企画者の努力の痕跡が随所に現れており、その労苦が偲ばれる。従来北園克衛については、詩作品、写真、デザインなど個々の分野ごとに特集が組まれることはあったが、本書のように、北園の多方面における活動を包括的に、かつ視覚的観点からわかりやすく取り上げた著作物はこれまで存在しなかった。その点において、本展覧会図録の北園克衛研究に資する部分は大きい。
 しいて注文をつけるとするならば、北園の詩の取り上げ方に関する部分であろうか。会場展示と同様、本書は全体として視覚的な美観を優先してレイアウトを組んでいる傾向にある。そのせいか、詩集の図版などは文字の可読性こそ担保されているものの、フォントが若干小さすぎる感は否めず、表紙やカット、字配りなどをさっと眺めただけで読み飛ばしてしまう読者もいるのではなかろうか。北園の詩の雰囲気や大まかな時代的変遷をつかむ入り口としてはそれで十分とも言えるが、仮にそうであるとしても、北園の代名詞たる実験的な詩群とともに、彼のもう一つの特色とも言うべき瀟洒で甘美な抒情詩についても、もう少し焦点を当てた方が、北園詩の鳥瞰景をより適切な形で示すことができたように思われる。
 もし図録の読者が、北園克衛の詩的世界をより十分に堪能したいと望むのであれば、北園の詩集を傍らに用意し、本書と照らし合わせながら読んでゆくという楽しみ方が良いのかもしれない。現在、比較的手に入りやすいのは現代詩文庫の『北園克衛詩集』(思潮社、一九八一年)、網羅的なのは『北園克衛全詩集』(沖積舎、一九八三年)であろうか。北園に限らず一般にモダニズム詩の多くは、その特異な表記法ゆえ、作品集に収録する際、元の詩集のレイアウトが変更されてしまうことがしばしば発生するが、本展の図録を見れば、単行本刊行時のレイアウトの様子を手軽につかむことができる。詩集でも詩の研究書でもない、図録としての本書ならではの活用法と言えよう。
 いま改めて一つの図録として捉えてみると、本書の完成度は高い水準にあることがわかる。とりわけ視覚的な美しさには細部にまで配慮が行き届いており、たとえば、見開きの形で載録した書籍の図版などは、撮影時のライティングを調節しコンピュータ処理を行うことによって、立体感を出すための陰影をつけてある。こうしたデザイン上の工夫は本書の中に数多く施されている。北園克衛の部は『VOU』をはじめとする色鮮やかな雑誌の表紙やモダニズム・アートの図像が所狭しと並んでおり、それぞれの章ごとには色彩豊かな扉も設けられている。そこには、伝統美の落ち着きを感じさせる橋本平八の部とは趣を大きく異にした、文字通り多彩な北園克衛の作品世界が広がっており、図録全体の構成そのものが、兄と弟の対照的な姿を自ずと浮き彫りにするような一つの仕掛けとして、うまく機能しているように感じられた。


 最後に、日本近代詩を専門とする筆者自身の立場から、強く関心を抱いた北園克衛の詩作に関して、いま少し思うところを述べたい。本展図録の北園の部冒頭に掲げられた野田尚稔氏の論文「北園克衛――詩的純粋の追求」は、北園詩の展開について丁寧にまとめており、その変遷の様子をよく伝えている。なかでも若き日の北園に対して兄・橋本平八が果たした役割や、兄弟における「純粋」の概念の捉え方の相違などを、二人の書簡等を引用しながら、詳らかに説明している部分は大変興味深い内容であった。同論文は、北園が用いた「応化観念」などの難解な用語についても、用例をよく咀嚼しつつ、その意味するところを解説しており、北園の部の劈頭を飾るにふさわしい内容を有している。
 この論文で取り上げられている詩編は、俳句雑誌『鹿火屋』や前衛文芸誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』などに発表された最初期のものから、第一詩集『白のアルバム』(厚生閣、一九二九年)に収録された「記号説」の初出形「白色詩集」、戦後の代表作の一つ「夜の要素」、さらには後期のプラスティック・ポエムにつながってゆく作品「単調な空間」まで、作風の変容ぶりをよく表し、かつ今日の研究において重要と位置づけられている作品が主に選び出されている。これらの詩に共通して表れている特徴は、いわゆる「実験的」な詩風であるということで、たとえば「夜の要素」に見られるような、改行の極端な多用や、それに伴って浮かび上がる助詞「の」の印象的な用法などは、北園克衛の詩語や詩形に対する追究の様相を如実に示している。北園の残した詩作品のうち、こうした実験的な作風の詩編が、作品の数からいっても、近現代詩史における影響からいっても、最も特徴的かつ代表的なものであると評価するのは自然なことであろう。その意味で、本展覧会がこうした作品の紹介を中心に据えていたのは、至極妥当なことであったといえる。
 しかしながら、先に少し触れたように、北園の詩はその全てが実験的な作風の、いわゆるモダニズム詩であったわけではない。衒いがなく洗練された、ある種の素朴さを感じさせる文体で、甘さや優しさのようなものを豊かに描き出した抒情的な詩風の作品もまた相当数残っていることが、北園研究においてはよく知られている。その点について、本展覧会が全く配慮を欠いていたというわけではないが、やはり取捨選択の部分において、実験詩の占める割合が多く、そのぶん抒情詩に関する内容が割愛されている傾向は感じられた。時間的にも空間的にも制約の生ずる会場展示において、動線の確保の観点などから視覚的な作品が優先されるのは致し方ないことであろうが、一方で、そういった制約から解き放たれ、個人でゆっくりと鑑賞を楽しめる図録においては、抒情詩を味読できるような趣向があっても面白かったのではないかというのが個人的な感想であった。
 たとえば、二十余冊を数える北園の詩集のうち、一九三七年、北園三十五歳の年に刊行された第六詩集『夏の手紙』(アオイ書房、一九三七年)に「鷄」という詩がある。「少年達が麦畑のなかを風のやうに散歩する/その麦畑からは村も遠く水車場も遠い/かれらはトマトのやうに頬をふくらませ/白いシャツに汗をかく/頭をあげるといきなり雲のなかで雄鷄が鳴く」というわずか五行の掌編であるが、この短い詩には、北園の抒情詩が有する様々な特質が含まれている。
 一読してわかるのは、この詩が平明な語彙を用いた散文調の作品であり、イメージの想起も比較的容易な「読みやすい」詩だということであろう。無論一つ一つの詩語は、詩人による彫琢を経た結果であろうし、詩の内容そのものが平易であると不用意に断ずるつもりはないが、語彙や文法、語法について特に型破りな表現は見られないし、比喩もそれほど奇抜なものではない。不自然な統語なども見当たらず、改行の仕方なども含め、あらゆる意味において、実験的な詩風からは距離のある作品といえる。
 その一方で、この詩にはその純朴さ、平明さゆえの、明るく爽やかな夏の情調が立ち現れている。「風のやうに」「トマトのやうに」という二つの直喩は、それ自体素朴な喩えではあるものの、それゆえに、ある種の明快さとみずみずしさをこの作品に付与しているし、末行の「雲のなかで雄鷄が鳴く」という表現は、さまざまな解釈の可能性を孕んだ、象徴性に富む締め方でありながら、しかし、そのどこか朴訥な物言いが、詩全体に通底する若やいだ雰囲気と響き合って、作品の奥行きを大いに広げている。青空と白雲の鮮烈な対照、広い麦畑にふいに響きわたる「雄鷄」の鳴き声、そういった真夏の一風景が、この詩編「鷄」においては、詩情豊かに描き出されていると評し得るだろう。本展覧会の図録も、北園の詩に少なからず見受けられるこのような抒情性にあえて積極的に言及することによって、北園の詩的世界をより重層的に提示することが可能であったのではなかろうか。


 本展覧会については、橋本平八と北園克衛というそれぞれ個性的な芸術家兄弟を取り上げ、その特色を的確に捉えて両者の関係性を探求しながら、調和のとれた企画展としてまとめ上げたことを高く評価できよう。もとより二つの対象、二人の人物について、その関わり合いの程度を見定め、明晰に論ずるということは困難を伴う営為であるが、本展覧会は橋本・北園兄弟の関係について、その内実をある程度まで明らかにして示すことに成功している。何より橋本平八と北園克衛のそれぞれのあり方、互いの結びつき方について、改めて問題を提起し、それに対する答えを見出そうとした本展の姿勢そのものが、既に有意義なものであり、また今後の発展にも繋がってゆく取り組みとして、十分に評価されてしかるべきものではないかと思われてやまない。

(注記)本稿の執筆に際しては、展覧会開催の経緯および図録の制作過程について、世田谷美術館学芸員・野田尚稔氏より、多くの重要なご教示を頂きました。ここに厚く謝意を表します。

[展覧会およびカタログ・データ]
「異色の芸術家兄弟――橋本平八と北園克衛」展
三重県立美術館(二〇一〇年八月七日~十月十一日)、世田谷美術館(二〇一〇年十月二十三日~十二月十二日)。図録は毛利伊知郎・原舞子(以上三重県立美術館)・野田尚稔・嶋田紗千(以上世田谷美術館)編集、三重県立美術館協力会・世田谷美術館発行、二〇一〇年、総頁数三百八(うち橋本平八の部=頁数百六十二・右開き、北園克衛の部=頁数百四十六・左開き)、B5判。

2013年2月 6日

「映像と展覧会――第三回恵比寿映像祭の試み」(97号掲載)堀江秀史

堀江秀史
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』97号、2012年10月、165-171頁

 映像と展覧会は、相性が悪い。
 「メディア」という語を、例えば映画メディアであれば不特定多数の観客が暗闇の中で同じ方向を向いて、白い巨大なスクリーンからの反射光を座りながら観賞するものであり、あるいは展覧会メディアであれば、多くのオリジナル作品・資料を鑑賞者が自由に時間配分して眺め歩くものである、というように、ある表現がオーディエンスに渡るための機構全体を指すものであると仮に定義すれば、それらの相性の悪さは、両メディアの性質に起因していると云えるだろう。
 映画館では、千八百円という対価を払うと、およそ二時間、(混んでさえいなければ)心地よい一人用のソファの独占権が与えられ、そこでは周りに迷惑のかからない範囲であれば何をしても許される。ポップコーンとコーラで小腹を満たすもよし、暗闇とその中で揺れる反射光のもたらすわざか、蠱惑的な眠気に身を任せるもよい。もちろん、映画の物語に没入することも可能だ。スクリーンの俳優は文句を云わない。隣の客も、映画館主も同様だ。フィルムの回転が持続するあいだ、観客は外の現実から隔離されて、安全な夢を見る。 (1)
 展覧会場のゲートは、映画のおよそ半額を支払うとくぐることが許される。費やすべき時間は予め決められてはいない。早歩きで横眼に作品を見ながら、五分で切り上げることもできるし、閉館まで一日中お気に入りの作品の前で陣取ることも可能である。だが、「きちんとした」見方で会場を廻るとすれば、おそらくおおよそ一~二時間が限度というところではないだろうか。様々なパネル説明を読みつつ、オリジナル作品に対峙し、さらに展示の仕方や配列からキュレーターによって巧まれた言外の批評をも読みとろうとするならば、歩き回る体力のみならず思考力も大いに使うこととなり、疲労感は予想以上に強い。あるいは、気になる作品を間近で見ようとするときに感じる監視員の視線も、この疲労の一因かもしれない。ともかくも、展覧会において、読書にも似た能動性から生ずる頭に感じる疲労感は、長時間の滞在を許さない。そして、そうであるからこそ、展覧会における鑑賞時間を配分する自由は、鑑賞体験を左右する重大なメディア的要素として数えなければならない。
 かくも「疲れる」展覧会に映像が展示されるとどうなるか(映像を使った新しい体感を目指すインスタレーションは除く)。
 映像作品は、通常始まりと終わりがあり、その全体が一作品である。自然、通常の作品・資料のようにただ「置く」わけにはいかなくなってくる。展覧会場で映像作品を「展示」する方法として最も一般的なのは、エンドレスでループ再生するという方法である。この場合、映像作品が始まるときにちょうどそこを通りかかることは稀で、鑑賞者は映像作品を途中から観て結末を確認し、再度始まった作品の途中で、ああ、ここからはすでに観た、と思いながら、結局再度通して観たり、そこで席を立ったりする。また、映画のようにスクリーンに光を投射するというスタイルを採ることは稀である。小型の受像機や通常テレビの受信に使う画面に像を映すというスタイルがほとんどだ。それらは発光体なので、映画館のように周りを暗くする必要はない。周りから隔絶されることもなく、現実と地続きの空間で、我々は映像を観ることを強いられる。知的な疲労と相談しながら歩かなければならない鑑賞者にとって、時間配分の自由を阻害し、映像の世界に没入することを許さない、「展示された」映像作品は、やっかいな存在として心に引っかかる。(観賞すると決めたならば)一つの作品に対して自動的に一律数分消費することを要請する映像作品は、展覧会メディアの特性に真っ向から抗う性質を持っているのである。
 映画や映像を、映画メディアを介して享受する体験に「慣れている」私は、映像をそのような観賞形態で「展示」されるにつけ、次のような疑問を抱かずにはいられない。
即ち、展示する側は、この映像を本当に観てほしいのだろうか? と。

 ところで、映画と展覧会が取り結ぶ関係を分類すると、大きく三つの種類を想定できる。一つには、展示の一部に映画作品を持ってくるという方法があり、すでに述べたようにメディア的な矛盾を孕んでいて悩ましい。二つ目には、映画に関連する資料(生原稿やポスターなど)を展示する、という方法があり、これは展覧会によく馴染む。国立フィルムセンター(京橋)の現在の常設展などはその好例だといえよう。 (2)
 三つ目は、広義の展覧会としての映画祭である。そもそも、映画は約二時間かけてひとつの作品を観るものだが、展覧会は、およそ1~2時間かけて百点あるいはそれ以上の作品を見る。先に述べた映画と展覧会の比較は、展覧会を、独自の収集方針や展示の仕方によってパッケージング(包括)された二次的著作物として、即ち一つの企画展をひとつのメタ作品として見做した場合(映画一本と展覧会一つという一対一対応)にもたらされるものであるが、両メディアの呈示する作品数に着目すれば、映画祭と展覧会のほうが形態的な類似性を持っていることが分かる。ともに一定の規準のもと複数の作品を一堂に介して、作品と観客との出会いを組織する場であるからである。映画祭は、映画作品に特化した(それゆえ時間的、空間的規模の大きな)展覧会であると云って良いだろう。映画祭という特殊な「展覧会」と映画は、調和して存在する。
 問題はやはり、展覧会に映画、映像が単体作品として展示される場合の関係性という一点に絞られてくる。

 展覧会はいかに映像を展示すべきか、あるいは映像はいかに展覧会という発表の場を利用すべきか、こうした問いへの回答を、具体的な作品に沿って様々なかたちで示すのが、恵比寿映像祭である。
 東京都写真美術館にて、2008年のプレ・イヴェントを経て、09年から毎年2月に約10日間に渡って、入場無料で開催されているこの映像祭の面白さは、「映像とは何か?」という問いを継続して持ち続ける中で、同時に映像はいかに展示され得るか、あらゆる可能性を試し続けている点にある。当然それは、展示する側(美術館)だけの問題ではない。そこで紹介される一部の映像の作り手もまた、展覧会メディアを介して人に伝わることに対して意識的である。映像の展示と、展覧会での発表を目指した映像、双方の企みが交錯する場が、恵比寿映像祭という展覧会なのである。「デイドリーム・ビリーバー」と題された第三回恵比寿映像祭(2011年2月18日~27日)の展示に沿って、その実際を以下確認したい。
 「映像祭」という名前からも分かる通り、もっとも大枠において、この展覧会は映画祭のスタイルを踏襲している。主会場である写真美術館は一階に映写室が備えてあり、そこでは連日、テーマに沿った、現在日本で観ることの難しい映画が上映される。その他、講演、公開討論、音楽と映像のライブイベントが館内で行われる。外へ出ると、恵比寿ガーデンプレイスセンター広場でインスタレーションも催されている。「地域連携」として、渋谷区恵比寿に籍を持つ、日仏会館、チェコセンターなど十二の施設で映像に関する様々な催しも展開されている。総力態勢で期間中の恵比寿を盛り上げていく姿勢が窺えるだろう。堪能しようとすれば何度も足を運ばなければならないこと、また一つの建物だけでは収まらない空間的な展開があることは、この映像祭が映画祭の特色を色濃く持っていることを示している。
 しかし、ここで注目したいのはやはり、狭義の展覧会としての恵比寿映像祭である。会期中、無料で開放された写真美術館三階から、映写室のある一階を除く地下一階までの計三フロアに跨る展示スペースには、多くの映像作品が様々な工夫の上で展示されており、それらは一度行けば充分に堪能できる。こちらだけを問題とするならば、通常の企画展同様、パッケージング(包括)されたひとつのメタ作品としてこの映像祭を捉えることができるだろう。
 三階から観始めるよう案内が出ているので、エレベーターで三階へと上がって、展覧会鑑賞を始める。入ってすぐ、暗い通路の中央に、比較的小さなスクリーンを天井から吊り下げて映し出されるのは、アピチャッポン・ウィーラセクタンの《窓》(1999)である。

「窓からテレビの画面に映り込んだ陽射しをカメラ越しに見ると、不思議なエフェクトとなって映し出されることに気付いた。その光の作用は、肉眼では直接感知することができないが、一方で、カメラを持つ撮影者の動きに応じて微細に変化した。 (3)」

 とキャプションにはあるが、映像だけを見る限り、どこかの建物と風景が映っている、という印象だけが伝わる。通路に展示されているので、正面と背面から、反射光と透過光によって映し出される像が鑑賞できる。光が揺れるさまが美しいが、特に立ち止まって観るわけではない。オープニング作品として「飾って」あるという印象である。
 この展覧会は、フロア毎に作品の傾向を分けている。皮切りの三階は、機械の眼を介さない限り得られない、映像表現の可能性を探求した諸作品の展示であった。肉眼では捉えられない、ミルクの雫が王冠を描くさまを捉えた有名な、ハロルド・ユージーン・エジャートン《ミルク・クラウン》(1957)の写真をほのかに照らす以外、照明はかなり抑えられていて、映像を堪能するための空間作りは万端だ。映像のテクノロジーに主眼を置いたこのフロアの代表といえるのは、ダニエル・クルックスによる《スタティック№12(動きの中に静寂を求む)》(2010)だろう。太極拳を舞う白髪の男性が、5分強の作品再生時間をかけて、次第に横に引き伸ばされていく。言葉による説明を拒否する、デジタル技術を駆使したこの作品はかなり大きく映し出されていたので、投射による反射光で展示されていたはずである
 二階の作品は、意識下を映像化することをコンセプトとしたものが多かった。ヤン・シュバンクマイエルによる、コマ撮りが特徴的なシュルレアリスティックなアニメーションがその代表例だろう(105分の作品自体は映写室での上映プログラムに組み込まれている)。マニュアルな作業で作られるアニメーションの、制作に使われた(あるいはその過程で生まれた)資料(美術品)の展示が二階フロアでは目立っている。三階とは異なり比較的明るく照らされていた二階は、映像に関する原資料の展示という、従来見られる展示スタイルが主であった。
二階から地下一階へ降りる途中、しりあがり寿の《白昼夢夫人》(2006-07)が小型受像機で階段の両脇に並べてある(全15種)。白黒で三分程度の各作品は、モダンな洋館で昼寝をする夫人がナンセンスな夢をみる、というもので、全て「夢オチ」であることがすぐに分かるため、一つ一つきちんと見なければ、という(展覧会で抱くことの多い)強迫観念は生まれてこない。ほのかなエロティシズムとナンセンスが混淆して、地下一階のコンセプトである現実と夢(映像)が混淆するという事態への橋渡し的な役割を果たす。
 それらを見ながら辿りつく地下一階の展示室では、最初に、同じくしりあがり寿の《ゆるめ~しょん : sleep》シリーズ作品(2010)が小型受像機で再生するかたちで幾つも並べられている。暗い部屋に天井から十数本の白いベールを垂らして、その中に各スクリーンを閉じ込めており、映像の白い光が間接照明として各所でぼうっと浮かび上がるっており、総合テーマの通り、白昼夢の空間へと迷い込んだ感がある。近づけば、その中でちょこちょこと動き回る、大雑把に描かれた鉛筆画のような「おじさん」のアニメーションが流れている点も、幻想的な部屋との落差があって面白い。その他ここでは、社会と映像との接点を捉える作品が展示されている。インターネットへの匿名投稿における複数の主婦の言葉を同一の女優が語る森弘治の《Re:》(2009)、ネット内空間「セカンド・ライフ」を使ったツァオ・フェイの《RMB シティの誕生》(2009)。私は最後に、ハルン・ファロッキの、米軍の、映像を使った軍事訓練を取材したドキュメンタリー、《シリアス・ゲーム》を観た。
 「デイドリーム・ビリーバー」、即ち映像を、起きながらにしてみる夢として捉えるというコンセプトに沿って、テクノロジー的な側面から始まり(三階)、意識の底をえぐるような映像の力にも焦点をあて(二階)、展示が進むごとに映像によって夢と現実の境界があいまいになっていく(二階~階段~地下一階)。かといって、それは芸術の問題だけに止まってはいない。社会的、政治的な利用もされる(地下一階)。それを批評的な眼差しで捉えるのもまた、映像である(《シリアス・ゲーム》のように)。各階内でどのような順序で作品を見るかはもちろん自由なので、訪れた人によって結論は分かれるところだろうが、この展覧会から私はそのようなメッセージを読みとった。
 ここで紹介したほか、刺戟的な作品は多く存在した (4)。本論の展開上、その全てを紹介できないのが残念だが、以上が狭義の展覧会として捉えた場合の恵比寿映像祭の全体像の概略である。

 映像の展示、展覧会メディアに適した映像、という問題への回答の一つは、先に紹介したしりあがり氏の作品説明が示唆している。「生真面目に鑑賞するというよりも、絵画のように空間のなかにあって、時折眺め見ることができるようなありかたが理想」(5) だという氏の、展覧会メディアの特性を踏まえたコンセプチュアルかつ詩的な幾つもの作品は、映像内容のナンセンスさと反復性、複数性、また、小型の受像機で再生し、決してその前に椅子など置かないという展示姿勢(階段に展示したことなどはそのコンセプトを活かしきった技である)によって、輝きを放っていた。
 いま、「映像内容のナンセンスさ」と記したが、これは、冒頭の命題、即ち映像と展覧会、両者のメディア的性質が引き起こす摩擦を解消する鍵となるのではないか。「ナンセンスさ」とは、言語への置き換えの不毛性、あるいは不可能性という意味でもある。「あらすじ」への転換がほとんど意味をなさない、と云う方が正確かもしれない。言語へ置き換えるならば、あくまで「描写」の域に留まるのがそうした作品の特徴だ。考えてみれば、ウィーラセクタンの《窓》も、クルックスの《スタティック》も同様の作品であり、それらは通路に置かれたり、椅子を用意しなかったりと、展示上の工夫が施されていた。これらの作品にあっては、映像には始まりと終わりがある、という認識はほとんど意味を持たず、展覧会に訪れる者の心理的負担になることはない。もっとも、意味を持たないかどうかは最後まで観ないと分からないのではないか、という意見も当然あるだろう。しかし、これらの作品は作品自体の持つ力によって、そうであることが一目で了解できるように作られている(その理由は個別の作品を詳細に分析することで見出していくしかないだろう)。とはいえもちろん、立ち止まって飽くまで眺めることも自由である。

 こうした事情は、カタログの図版と実作品を比べてみたとき、一層明らかになる。
 そもそも、映像、映画は、時間の流れの中でしか生起しない存在である。もとより図版として紙の上に固定できるものではない。そのため、絵画や写真のようには、カタログの図版によって視覚情報に関するおおよその全体を掴むことはできない。こうしたことは、比較芸術研究の中でも、映画と漫画 (6)、あるいは映画と写真 (7)の関係を考察する中で、より根源的なジャンル間の問題としてすでに指摘されている。映像から静止画への転換という問題はあるにせよ、これまで、映画のカタログ、パンフレットは、当該映画作品を取りまく補足的な文字情報を主軸に、彩り程度にどこか印象的な映画のシーンを抜き出して、あるいは別途撮られたスチル写真を添えるというスタイルで出版されてきた。恵比寿映像祭のカタログも、こうした従来の(映画)カタログのスタイルを踏襲した作品紹介が大半だが、先に挙げた幾つかの作品に限っては、絵画や写真の図版と同様、紹介のために付された一枚~数枚の図版を眺めるだけで、作品の大よそが理解できる。こうした傾向が最も顕著なのは、運動する人物が緩慢に左右両端へと引き伸ばされるクルックスの《スタティック》シリーズだろう (8)。ウィーラセクタンの作品も、図版から伝わるニュアンスと実作品の映像そのものから受ける印象とに大きな乖離はない。上映時間という概念を無効にするという反映像的な特性を持った映像作品が確固として存在していることの証左と云えよう。
 ちなみにその一方で、インスタレーション作品の図版は、残念ながらほとんど役に立たない。これには、会期前(即ち展示が未だできていない段階)にカタログを刊行しなければならないという事情も多分に影響していることだろう。作品個々に「役に立たない」と述べざるを得ない理由はあるが、例えばタニア・ルイス・グティエレスの実際の出品作品は《フィルム・ファウンテンズ》なる模型を主とした作品であったが、カタログにはこれ以前にカナダで行われた《時の壺》なるインスタレーション作品の図版が掲載されている。図版、解説ともに、出品作品の難解さを克服する手立てとはならなかったように思う。
 映像祭の中味を一冊にまとめたカタログは、以上のように様々な作品を並列に並べており、それぞれが個別にジャンル間の考察をもたらし得るが、それでは、このカタログが、全体として持つ意味とは何だろうか。カタログは、年毎に設定されるテーマの狙いを記した岡村恵子氏の巻頭論文のほか、二本の小論文と一本の対談、そして、展示作品、映画館上映作品、関連イベント、作家情報等、映像祭の全容がコンパクトにまとめられ、英語併記で掲載するというものだ。各国の最先端の映像作品・作家の紹介という事情もあり、会期の終わった現在から見るならば、このカタログは研究成果というよりは、恵比寿映像祭の試みの記録として捉えるべきものだろう。しかし、リアルタイムの展覧会を考慮に入れるならば、このカタログは、国内ではその作家の名前すら聞いたことのないような未知なる作品に触れる来場者たちが、会場で適宜参照するための「地図」としての役割を最も重視して作られているように思う。
 写真美術館を中心に、恵比寿全体で行われる、展示、上映、イベントを、会期中存分に堪能できるように、論文部分は極力抑えられ、カタログは作品解説、あるいはガイド情報を中心にして可能な限りコンパクトに構成されている(それでも第三回のものは前二回に比べて倍くらいの厚みがあるが)。一つの作品に与えられた見開き二頁という紙幅の上下左右に取られた充分な余白からは、実際に作品を前にしたときの感覚を、会場を回りながら書き込めるようにという配慮が読みとれる。簡素な製本(ソフトカバー、ジャケット無)は、本棚に収められるのでなく、行く先々であちこちをめくり開かれ、使い倒されることを望んでいるように映る。先に述べた刊行までの時間的制約によって不十分な記述となっている情報は、自分で上書きしていかなければならない。本展評の主旨に沿えば、作品展示に関して、どのように展示したのか、音の出力はどうか(ヘッドホンなのかスピーカーなのか)、どのような椅子を用意したあるいはしなかったのか等、美術館側が用意した鑑賞形態の情報も、自ら足していったほうが良いだろう。それらは、美術館(博物館)が新しい展示を見出し発展していくためにも、映像がどのように発表の場を開拓していくかを見守る上でも、重要な手掛かりとなる筈である。映像の可能性を「作り手」、「結び手」(美術館)そして「受け手」が皆で考える場として開催される映像祭 (9)にふさわしいカタログだと云えよう。「受け手」が携行して自らの手で情報を補完していく「白地図」が、第三回恵比寿映像祭のカタログなのである。

 以上、実際の展示とカタログから、映像と展覧会の関係について論じてきた。
ある絵画を見るために、特別に椅子を用意する展覧会はない(休憩用に置かれることはあっても)。絵画や写真を動かしたい、という熱意から生まれた映像が、展覧会メディアに発表の場を移すことで、今度は絵画や写真のように見られたい、という欲求を持ち始めている。そうした感覚を鋭敏に受け止めて展示する受け皿となり得ているのが、恵比寿映像祭なのである。もっともこれは、映像と展示をめぐる問題への答えの一例に過ぎない。この映像祭が引き続き歴史を重ねることで、さらなる回答が提示されていくことを願いたい。

※本論は、東大比較文学会ホームページの「寸評」欄に掲載された「第三回恵比寿映像祭」の報告に加筆、修正を加えたものである。アドレスは以下。/bb/2011/02/post_21.html



(1) もちろんこうしたステレオタイプなメディア観の反証となる作品はいくらでもある。個人の作る実験映画の多くはそのようなメディア観を逸脱するものであるし、例えば寺山修司(1935‐83)はこのような映画メディアに対する観客の受動的な態度を、実作において厳しく問い直した。だが、そうした映画が「実験」と呼称されていることが相対的に示すように、本流はあくまで本文中に記したような映画メディア観であると云えるだろう。
(2) 現在の常設展の母体となった企画展「映画遺産」展(東京国立美術館フィルムセンター、会期2002~03年)のカタログを参照。
(3) 『第三回恵比寿映像祭』カタログ、42頁。
(4) 本論で扱いたいのは「映像と展覧会」であるため、特別な設備を必要とする(従って映像以外の要素にも作家の意思が介入する)インスタレーション作品は敢えて取りあげなかった。もちろんインスタレーションと展覧会は、展覧会が本来、そこでしか見られないオリジナル作品を展示することが魅力のひとつであることを考えても、相性が良い。筆者が第三回恵比寿映像祭において最も面白く感じたのは、そうしたインスタレーション作品のひとつ、ダヴィッド・クレルボの《幸福なモーメントの諸断面》(2007)であった(東大比較文学会ホームページに詳細あり)。
(5) 岡村恵子氏による作家紹介文。『第三回恵比寿映像祭』カタログ、68頁。
(6) 四方田犬彦「映画の隣人」『漫画原論』(筑摩書房、1994、ちくま学芸文庫、1999)
(7) 佐々木悠介「エルヴェ・ギベールとアンリ・カルティエ=ブレッソン――もう一つの写真論のために」『超域文化科学紀要』第一一号、東京大学総合文化研究科、2006年、5‐22頁。
(8) 『第三回恵比寿映像祭』カタログ、45‐47頁の図版参照。
(9) 同カタログ、9頁。

[展覧会及び図録情報]
「第三回恵比寿映像祭 デイドリーム・ビリーバー‼」
 東京都写真美術館その他(2011年2月18日~27日)。図録は宮沢章夫他執筆、岡村恵子他編集、東京都写真美術館発行、2011年、総ページ数215。
※展覧会名に関しまして、『比較文学研究』97号で、誤植がありました。正しくは、「恵比寿映画祭」でなく「恵比寿映像祭」となります。この場をお借りして訂正させて頂きます。

2015年2月16日

「二つの川村清雄展:「維新の洋画家 川村清雄展」と「もうひとつの川村清雄展」」(98号掲載)申 旼正

申 旼正
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』98号、2013年10月、165-172頁

Ⅰ.はじめに:川村清雄とは誰なのか?

 私が川村清雄について初めて知ったのは二年前のことである。ある歴史研究者から「個人的には近代洋画家の中で川村清雄が一番好きなんだ。」と言われたのがきっかけであった。東京都江戸東京博物館の学芸員が、所蔵作の《勝海舟肖像》を見ていながらも、作者である川村清雄の名前は知らなかったと話していた通り、清雄の知名度は高くない。(同館の所蔵作《勝海舟肖像》の制作者が川村清雄)
 川村清雄(1852--1934)は、明治洋画の先駆者のひとりであり、もっとも早い時期にヨーロッパ留学を行い、西洋を体験した画家である。特に、彼がアメリカ(1871--1873滞在)、フランス(1873--1876)、イタリア(1876--1881)といった様々な国を回り、その地の絵画様式を身に付け、さらにそこから日本人のスピリットを表現しようとした点は注目に値する。当時は日本洋画を牽引する画家として高く評価され「気ままな天才」(1)と呼ばれながらも、黒田清輝による外光派の登場によって大衆から遠ざかり、人々の記憶の中から薄れていった画家、それが今回の展覧会評の主人公、川村清雄である。
 埋もれ木であった川村清雄に再び照明が当てられたのは2012年のことであった。彼に関する展覧会が二つも開かれ、関連研究もが続々発表された。東京都江戸東京博物館開催の「維新の画家 川村清雄展」と目黒区美術館の「もうひとつの川村清雄展」は、なかなか鑑賞する場所がない清雄の作品を、豊かな資料とともにまとめて見られる貴重な機会を提供してくれた。よって、ここでは注目すべき二つの清雄展、「維新の洋画家 川村清雄展」と「もうひとつの川村清雄展」に関して述べたい。

Ⅱ.初対面:東京都江戸東京博物館の「維新の画家 川村清雄展」

 会場の中へ進むと、一枚の白黒写真が掛かっていた。謹厳な表情、聡慧に輝く眼差しは年齢を重ねても衰えることがない。堂々とした風貌、端正な着物姿でこちら側を見つめている一人の男性。これが川村清雄との初対面であった。
 「維新の洋画家 川村清雄展」には、総計221点に及ぶ資料と作品が、序章「旗本の家に生れて」、第一章「徳川派遣留学生」、第二章「氷川の画室」、第三章「江戸の心を描く油絵師」、そして終章の「《建国》そして《振天府》」という五つの章立てで構成されていた。これらのタイトルからも分かるように、展覧会は清雄の一生涯を踏まえる規模で、川村清雄という画家を歴史の枠組みの中で見ようとする工夫が見られるものであった。221点のうち、清雄の関連資料の出品が117点で、104点の作品数を上回る点は特記すべきことだろう。各章は綿密に構成されており、見所もはっきり打ち出されていた。
 第一章「徳川家派遣留学生」では、「川村清雄米国留学免許」(カタログ図版33)や「川村清雄と徳川家派遣留学生たち」の写真(図版36)、「家族宛川村清雄書簡」(図版39)のような資料と清雄が留学先で描いた習作群を展示し、清雄の留学時代の全貌を明らかにしていた。六年間パリとヴェネツィアでアカデミズムの油彩画を徹底的に学んだ彼の経歴が示すように、清雄のデッサンは緻密で正確であり、筆捌きや色彩は落ち着いている。清雄芸術の基となる堅実な表現からは、習得のために耐え忍んだ苦労が窺われる。
 第一章で特に印象的だったのは、清雄の留学期の友人であるマルティン・リーコからの一通の手紙である。清雄が帰国する際に渡した別れの手紙でリーコは、日本の趣味を失わないようにと忠告している。

 汝は日本人である、日本人は実に意匠に富んで筆に器用な物を持ッて居ます、其れを捨てて無暗に西洋を取りたがるのは間違いだ、日本人は日本のを建てて往かなくちや往けない。 (2)

 友情にあふれたこの手紙は、清雄のその後の芸術活動に大きな影響を及ぼした。西洋で身につけた絵画技術と日本人のスピリットを融合し、独自の作品世界を拓いていく決定的なきっかけとなったのである。清雄のことに気を配り、力を込めて手紙を書いたリーコの友情が胸に響く。
 第二章のタイトルである「氷川の画室」とは、清雄のパトロンであった勝海舟が彼のために赤坂氷川の自邸内に設けた画室のことである。清雄はここで《歴代将軍像》(図版95-99)や《江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図)》(図版93)をはじめ、海軍省に関わる多数の作品を制作したが、その中でも《形見の直垂》(図版107)は第二章の花形とも言い得る作品で、注目に値する。
 《形見の直垂》は、1899年に世を去った勝海舟に対する感謝と鎮魂の思いが込められた作品である。画面の左側には白直垂を着た少女が、その右側には「外へ地獄内へ極楽」(3) を描いた古代の棺とその上に載せられた海舟の胸像が描かれている。周りには海舟の愛用の遺品なども並んでいる。この作品を前にした人は誰でも、これが追悼の意で描かれたことがすぐに分かるだろう。白直垂をまとった少女が海舟像の方へと手を伸ばす、そのゆったりとした仕草は、画面の全体に何とも言えないような侘しさを漂わせている。本作品は、いったん完成した後も加筆が続けられ、終生清雄の手許を離れることがなかったという。最大の恩人の死に際する清雄の深い謝意や悲嘆の情がよく表れており、清雄の最高傑作の一つと評価するに相応しいものである。
 第三章には、「江戸の心を描く油絵師」というタイトルの通り、江戸の香り高い清雄独自の芸術世界がうかがわれる作品が多数展示されていた。清雄の得意なジャンルである肖像画をはじめ、留学先ヴェネツィアを追憶し描いた一連の作品群、風景画や静物画に至るまで、彼の様々な作品を網羅したセクションであった。

 清雄は、あくまでも油彩画としての構図やモチーフを徹底的に研究した上で、背景に金銀箔を使用したり日本に古来から伝わる文様や伝統的な色彩を用いるなどの試みをおこなった。さらに絵を描く支持体の素材もカンバスにこだわらず、絹本や紙本、漆塗板や木地をあらわした古代杉の板など、日本の伝統的な素材を利用した。それは、十年におよぶ海外留学で油彩の基本と精神を奥深くまで体得し、さらに上質な江戸の武家文化の中で育った清雄だからこそ可能となった技とセンスであり、洋画の技法に日本画の感覚を融合させた、独特で気品のあふれるものであった。 (4)

 清雄の作品は、その支持体や文様、色彩の表現が印象的である。例えば金地の絹本に油彩で描かれた屏風(《素戔嗚尊図屏風》、図版156)や板に描いた贈答の絵(《お供え》、図版175)に見られる支持体の特異性は非常に興味深い。
 《桜花に鈴》(図版180)、《草図》(図版189)等は、清雄独自の魅力が特に際立つ作品である。《桜花に鈴》は黒漆板の地の上に純白の山桜を描いた作品であるが、黒と白の色彩が対比され、花と枝が闇に浮かび上がるような錯覚を与える。傍に描かれた小鈴からは、静かに響く涼やかな音が聞こえてくるようである。一方《草図》は、二つの古板を欄間にみたて、その木目や隙間を使って巧に蔓を張る植物を描いた独特な作品である。画材の木目には自然の粘り強い生命力と時間の永続性が感じられ、繊細な筆致で描かれた青葉は古板に新しい生命の息吹を与えている。《草図》に表された古板と青葉は、見る者に自然の雄大さと清涼感を感じさせる美しい組合せと言えるだろう。
 「維新の洋画家 川村清雄展」は、豊富な資料と作品を通して、清雄芸術のオリジナリティーを明らかにする展示であった。また、揺れ動く歴史の中を生き抜いてきた明治絵画の紆余曲折を垣間見ることもでき、「歴史美術展覧会」とも呼ぶことができるかもしれない。
 展示の規模の大きさに比べるとカタログのサイズは小さめに思われるが、内容は展覧会に劣らず充実していて、見せ方にも工夫が見られるものである。
 まずはカタログのデザインから見ていきたい。真っ白の地に黒字の縦書きで「維新の洋画家 川村清雄」という展覧会のタイトルが書かれている。カタログのジャケットには、真中に深紅色の円形が半透明に描かれており、ジャケットをカタログに被せると深紅色の円形の下に黒字のタイトルが透けて見える作りになっている。一方、カタログの右側には、深紅色の円形に一部が掛かるように緑の半円が描かれており、象徴的なものを感じさせるデザインである。担当学芸員の説明によると、地色の白色は生の色を好んで使った清雄の表象だという。当時、絵画に「生の白」を使うのは稀で、白は他の色と混ぜて使う方が一般的であった。作品の中で「生の白」をそのまま使った清雄の大胆な表現は、藤田嗣治の乳白色よりも時代的に前にあたる。カタログの地色は、このような清雄芸術の斬新さを象徴するものである。また、深紅色で描かれた円形は日本を、緑色の半円形は西洋を表しているという。この二つが、清雄芸術の根源を成す日本人のスピリットと、清雄の西洋体験を意味していることは言うまでもない。
 カタログの中身はどうだろうか。展覧会に出品された221点の資料や図版を全て載せ、一つ一つの資料に関してきちんと説明を行っていることは感嘆に値する。図版が小さくはなっているものの、川村清雄資料集と呼んでも差し支えないほど充実した資料と関連説明は、このカタログの大きな特徴と言えるだろう。掲載された論考は、落合則子「慶応戊辰の川村家―川村清雄 画家の魂の原点―」、ダニエレ・ラウロ「ヴェネツィア美術学校学籍簿―川村清雄のイタリア留学時代(1876-1881)の考察―」、田中裕二「日比翁助と川村清雄―士魂商才の経営者と和魂洋才の油絵師―」、堀切正人「川村清雄作品における「時」の表現について」、村上敬「聴く歴史画―《建国》《振天府》の聴覚的モチーフについて―」の五編で、これらの論考は様々な資料を提示しながら川村清雄をめぐる諸問題を歴史的な観点から幅広く取り扱っている。
 カタログの「資料編」には、殊に力が注がれている。「関連年表」や「出品リスト」の他、展示された資料の全ての釈文を載せた「文献釈文」や「川村家関係系図」は特記すべきものである。また、「川村清雄をより知りたい方のための読書案内」では、川村関連の文献が「ⅰ.主要展覧会図録」、「ⅱ.まず第一に読むべき諸文献」、「ⅲ.川村清雄の談話や原稿」、「ⅳ.同時代人の川村清雄評」、「ⅴ.より専門的な研究のために」、「ⅵ.平成十四年(2002)以降の川村清雄関連文献」と、項目に分けて詳細にわかりやすく紹介されているのもありがたい。
 東京都江戸東京博物館は、本展覧会の企画段階から清雄に関する綿密な資料調査や研究を行ってきた。(研究論考の詳細な題目は、本カタログの資料編、「川村清雄をより知りたい方のための読書案内」の「ⅵ.平成十四年以降の川村清関連文献」で確認することができる。)膨大な資料の提示とそれに関する複眼的な解釈、学術的な考察は、清雄研究の入門編として役立つものを作りたいという主催側の意図と符号するものになっている。特に、前述した「文献釈文」は、歴史的な観点から清雄へ接近する可能性を示しており、さらに「川村清雄をより知りたい方のための読書案内」は清雄研究への興味をそそるに十分である。
 「維新の洋画家 川村清雄展」は、川村清雄及びその芸術を理解する絶好の機会を提供してくれた。単に清雄の作品を鑑賞できるだけではなく、彼の人生と芸術を明治史の文脈に即して理解できるという点で、特に意味深いものであった。画家個人のことに加えて、明治期における洋画家の役割や位置付け、西洋の文物と日本人としてのアイデンティティの融合の問題などについても考えさせられ、東京都江戸東京博物館の企画力に改めて感心した。

Ⅲ.川村清雄をもっと知るために:目黒区美術館の「もうひとつの川村清雄展」

 江戸東京博物館の展覧会とほぼ同じ時期に目黒区美術館で開かれた「もうひとつの川村清雄展」は、前者の展示より小さい規模で、歴史的な資料よりは作品の紹介に力を入れたものであった。「加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション」という副題からも分かるように、この展覧会は清雄に関する二つのコレクションが中心となっており、清雄が制作した装幀意匠の作品を再照明する工夫が見られた。
 加島虎吉(1871‐1936)は取次業、出版業を営み、明治時代後半から清雄晩年の昭和初期に至るまで、様々な面から彼を支援し続けた人物である 。(5)コレクションは清雄の人生後半の作品が多くを占めているが、展覧会の第一章「加島虎吉と川村清雄」には、そのうち33点が出品された。特異な支持体に挑んだ油彩画が数多く含まれているのが、加島コレクションの特徴である。
 コレクションの中では、加島のお気に入りの作品であったと言われる《鸚鵡》(図版Ⅰ・2)が特に目を引いた。《鸚鵡》は、縦84.5cm・横36.3cmの朱漆塗の板に、赤色や黄色の薔薇と、蝶に驚き片翼をひろげた白のオウムを大胆な構図で描いた作品である。マチエールを生かしたオウムの姿は滑らかな支持体の上で一層目立ち、赤の地に真っ白のオウムと黄色のバラの色合いがとても魅力的な作品である 。(6)
 栃木県出身の実業家である青木藤作(1870‐1946)は、歌川広重の肉筆浮世絵と小林清親を中心とした明治版画、久保田米遷の絵画などを含む膨大な蒐集を行った大コレクターとして知られている。清雄とは1930年から深い親交を結び、彼から直接に60点を超える作品を譲り受けた。コレクションは小品が多くを占めるとはいえ、清雄の面目躍如たる秀作が少なくなく、「本来ならよそ様にあるはずがない珍品」 (7)、つまり清雄に直接所望しない限り手に入らない作品が含まれている。第二章「青木藤作と川村清雄」には青木コレクションのほぼ全ての作品が出品されており、清雄と青木の深い信頼関係を垣間見ることができた。その中で特に目を引いた《たた豆の雀》(図版Ⅱ・9)は(8) 、青木コレクションを代表する秀作の一つである。真っ黒の漆板に、羽ばたく雀の様子が緻密に描写されている。漆板の黒の世界は、雀を閉じ込める空間の息苦しさを感じさせると同時に、雀の存在感を一層浮き彫りにする効果も有している。一方、清雄が画室に揚げて在不在を示したと言われる《こい・なこそ》(図版Ⅱ・10)も興味深い。州浜形の板で作られた表札の表面には「こい 牛の津乃もじ 婦多つ文字」と、その裏面には「なこ曽」と書かれている。表面の「二つの文字(婦多つ文字)」は平仮名の「こ」を、「牛の角文字(牛の津乃もじ)」は「い」を判じさせ (9)、裏面の「なこそ(なこ曽)」は「来てはいけない」の意を表すと言われるが、清雄の発才が滲み出るもので、これも清雄と藤作の特別な間柄を表す、「本来ならよそ様にあるはずがない珍品」と言えるだろう。
 青木コレクションは、「清雄の作画活動全体をサポートし、その人物も含めて蒐集していった」 (10)青木の姿勢と、清雄と青木の強い絆が窺われるものであり、バラエティーに富む作品群が見せる質の高さは、観る者を十分に満足させるものであった。
 展覧会の第三章、「川村清雄の装幀意匠」も決して見逃すわけにはいかない。清雄に関する研究の中では度々言及されているものの、まとまって紹介されることのなかった装幀意匠の仕事がここで展示された。清雄による装幀意匠の制作は、特に加島虎吉と結び付けて論じられる場合が多い。清雄が装幀意匠家として認められるまでには、清雄のデザインに対する才能を見極め、彼を全幅的に信頼した加島の役割が大きかったのである。また、加島が運営した至誠堂は、清雄の装幀作業の主な舞台でもあった。今回の展覧会にも、『洗心廣禄』(幸田露伴著、1926年)(図版Ⅲ・1、2)、『瓶 處世訓話』(和田垣謙三、1909年)(図版Ⅲ・7)、『白河楽翁 後編』(碧瑠璃園著、1910年)(図版Ⅲ・10)、『兎糞錄』(和田垣謙三、至誠堂、1913年)(図版Ⅲ・3)など、至誠堂から刊行された書籍が多数出品されており、清雄が施した装幀の美しさを鑑賞することができた。また、清雄の装幀意匠の真骨頂と言われる『新小説』(春陽堂)や『新婦人』(聚精堂/至誠堂)のような文芸誌も並べられており、彼の独創的な感覚の展開を見ることができた。
 清雄の友人である徳富蘇峰(1863-1957)は清雄に対して、「独自一己の特色を発揮したる」(11) 者と褒めそやし、装幀意匠に至っては清雄を柴田是真に次ぐ明治時代の画家と評価した。目黒区美術館の展覧会は、清雄がその抜群のデザイン感覚を発揮した作品の数々を一挙に展示し、蘇峰のこのような賛辞も当然のことと理解できるような、見応えのあるものであった。
 「維新の洋画家 川村清雄展」のカタログが政治、経済等も含めた全体的な歴史に基づくものであったのに対し、「もうひとつの川村清雄展」のカタログは美術史からのアプローチに特化した構成になっている。157点の出品作の図版は、その一点一点が大きく鮮明に印刷されており、特に第三章の装幀意匠の制作については、表紙・ジャケット・口絵・見返しなどが色々な角度から撮影されており、図版を通して装幀の全容が把握できるようになっている。本文には作品に関する基本的な情報だけを掲載し、詳細な説明は資料編の「作品解説・作品リスト」に集めている。
掲載された論考も、展覧会の構成に合ったものである。山田敦雄「目黒区美術館と川村清雄の作品」、長井裕子「青木藤作と川村清雄」、降旗千賀子「「加島コレクション」から見えてくるもの」の三編の論考は、展覧会の趣旨や、目黒区美術館と各々のコレクションとの関係を知る上で興味深い。また、岩切信一郎「装幀意匠家・川村清雄-『新小説』の表紙絵を中心に-」では、明治後期の印刷文化や印刷美術の発達、清雄の装幀意匠の仕事とその独自性について詳細に論じられており、展示に対する理解を深める一助となる。
 資料編には「作品解説・作品リスト」(116-126頁)と「川村清雄略年譜」(127-135頁)の他に、「川村清雄が関わった装幀の仕事-書籍装幀・雑誌表紙絵」(108-109頁)、「加島虎吉が経営する〔至誠堂〕の出版物」(114-115頁)が掲載されている。特に「川村清雄が関わった装幀の仕事-書籍装幀・雑誌表紙絵」と「加島虎吉が経営する〔至誠堂〕の出版物」の二つの資料は、清雄の装幀仕事の紹介にあたって美術館側がどれほどの工夫を行なったかが窺われるものである。

 川村の絵画が示す方角には「もうひとつの」「そうであっても良かった」近代の日本人による絵画の姿が確かにある。しかし、現実の川村はそのテンペラメントにも支配され、江戸の美意識を色濃く継承し、その作品は大きな時代の中で捉えるべき問題を孕みながら、なお、極めて個人的なものでもある。 (12)

 清雄は、幕臣の家柄で形成された江戸の美意識と、1870年代の西洋で体験した新文明を調和し、和と洋を折衷する方式を習得していった。また、西洋で経験した印刷文化の展開は、帰国後の装幀意匠の活動に少なからず影響を及ぼした。目黒区美術館の展覧会は、清雄によるこのような和と洋の折衷を心ゆくまで楽しめる機会を与えてくれた。殊に、清雄の装幀意匠の仕事を再照明したのは、彼の芸術人生を考える上で意義あることであったと思われる。川村清雄をより深く見詰めるようになったに違いない。

Ⅳ.おわりに

 東京都江戸東京博物館と目黒区美術館にて開かれた二つの川村清雄展は、その構成も趣旨も異なるものの、これまで一般に知られていなかった清雄の作品理解のきっかけとなる貴重な機会を提供してくれた。清雄の人生と芸術の全貌を明治史の中で明らかにした東京都江戸東京博物館の展示と、彼の作品とコレクターの関係により集中し、装幀の仕事にまで触れた目黒区美術館の展示は、互いに補完的機能を果たしていたようにも思われる。
 筆者は清雄の作品が気に入った。冒頭で紹介した「近代洋画家の中で川村清雄が一番好きなんだ。」と言う歴史研究家の話が分かるような気もした。日本伝統の香り漂う支持体に西洋の絵の具で描かれた異色の絵、その組合せは斬新で、明治の絵画とは思われないほど現代的にも感じられる。清雄の絵画には、日本の美意識と西洋の新しい感覚が美しく調和しており、西洋留学から《建国》、《振天府》の制作に至る、洋画家清雄の波乱万丈の人生の全てが込められていた。それ故、清雄の芸術は非常に個人的であると同時に、大きな時代の中で捉えるべき問題を孕んでいる。今回の清雄に関する二つの展覧会が、清雄の作品をもって日本の洋画の歴史とそのアイデンティティの問題を慎重に取扱い、それについてもう一度疑問を投げ掛けた点は称賛に値する。

 川村氏は明治期洋画界の先覚で、油絵の是真と云はれ、油彩で抱一から是真、省亭と伝はつた江戸好みの工芸趣味を特色とした人で、鮮麗な色彩と渋い味はひとを巧に調和させた特異な存在だった。 (13)

 このように清雄を評価したのは画家鏑木清方、1950年の言である。清雄生前の評価やその名声に比べ、彼の研究はまだ十分に行われているとは言えない状況である。「この展覧会を機にして、これから清雄に対する、様々な角度からの再評価・再照明が行われてほしい」と、東京都江戸東京博物館の担当学芸員が言っているように、日本人による洋画とは一体どのようなものであったのか、より多くの人が関心を持ち、理解を深めていくことが望ましい。それは、未だ論争の中核となっている日本の洋画が、アイデンティティを確保する第一段階となるだろう。



(1) 『維新の画家 川村清雄』(東京都江戸東京博物館・静岡県立美術館、2012--2013)東京都江戸東京博物館・静岡県立美術館・読売新聞社、2012年。
(2) 川村清雄「唾玉集」(本文では、カタログ『維新の画家 川村清雄』、54頁から再引用。)
(3) 前掲書、76頁。
(4) 前掲書、79頁。
(5) 前掲書、17頁。
(6) (朱漆塗の板は)絵の具を定着させることが難しいと思われる組み合わせだが、川村がどのように下地の準備をし、そのうえで油彩を扱ったのかは定かではない。モデルのオウムは川村の飼っていたもの、またはその剥製と思われる。(前掲書、116頁。)
(7) 『もうひとつの川村清雄展―加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション―』(目黒区美術館、2012年)目黒区美術館、2012年、13頁。
(8) 川村は、板に直接、あるいは下地作りをした上に油彩で描くことが多かったが、塗は職人に塗らせていた。本作の黒塗を塗った板は、茶道で風炉・水指などを載せる長板だったもの。(前掲書、120頁。)
(9) 『徒然草』にある悦子内親王の歌「ふたつもじ うしのつのもじ すぐなもじ ゆがみもじとぞ きみはおぼゆる」が出典。(前掲書、120頁。)
(10) 前掲書、15頁。
(11) 徳富猪一郎「川村清雄翁の画」『書斎感興』民友社、1928年7月。(本文では、カタログ『もうひとつの川村清雄展』、12頁から再引用。)
(12) 前掲書、9頁。
(13) 鏑木清方「雑誌の絵について」『新小説』(六十一周年記念)第5巻第4号、昭和25年4月1日発行。(本文では、降旗千賀子「「加島コレクション」から見えてくるもの」[『もうひとつの川村清雄展』、(目黒区美術館、2012年)]102頁から再引用。)


【展覧会および展覧会カタログ情報】
Ⅰ.「特別展 維新の洋画家―川村清雄」展
東京都江戸東京博物館(2012年10月8日-12月2日)、静岡県立美術館(2013年2月9日-3月27日)。カタログは、東京都江戸東京博物館・静岡県立美術館・読売新聞社編集・発行、2012年、総頁数218。

Ⅱ.「もうひとつの川村清雄展―加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション」
目黒区美術館(2012年10月20日-12月16日)。カタログは目黒区美術館(降旗千賀子、山田淳雄、和田佐知子)編集・発行、2012年、総頁数135。�

「渋谷ユートピア 1900―1945」展(98号掲載)任 ダハム

任 ダハム
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』98号、2012年10月、161-165頁

 今更ながら「渋谷」という場所について考えてみた。瞬時に思い浮かんだのは、「若者の街」「東京ファッションの中心地」という、マスコミによって命名された渋谷の別名。そのせいか、渋谷と聞くと、私もつい人波で賑わうスクランブル交差点、SHIBUYA 109などを連想してしまう。しかしながら、渋谷はそれだけでは説明できない、もっと複雑な場所でもある。デパートやファストファッションブランドのお店がたくさん並んでいる一方、自主映画を上映する小さい映画館や、インディーズ系のライブハウスが群がっている街――複雑で、常に変わりつつある、若者の最新文化の発信地。現在の渋谷は、若い。そして、早い。
 ところで、「渋谷ユートピア 1900―1945」展は、現在の渋谷を見るに際し、より新しい視点を観客に提示してくれた展示であったといえる。展示室の入り口には、この展覧会に対して「渋谷ユートピア」というタイトルを付けた所以が説明されていた。

 近代においては、東京とその周辺には幾つものアーティスト・コロニー(芸術家村)が生まれました。田端文士村、池袋モンパルナス、落合文士村、馬込文士村、もっと周辺には我孫子文士村、浦和アトリエ村などがあります。それらにならんで渋谷を、美術家が集り、住み、交流をもったアーティスト・コロニーとしてとらえることも可能ではないでしょうか。ここではそれを、村山槐多と仲間たちの夢になぞらえて「渋谷ユートピア」と名付けました (1)。

 本展が開かれた松濤美術館が「渋谷区立美術館」であることを、実は今回改めて認識した。確かに「渋谷に住んだ美術家あるいは渋谷を描いた画家を取り上げ、美術家たちのユートピアとも言える、かつての渋谷の姿を再発見しようとする」(2) この展覧会の趣旨は、開館30周年記念展を兼ねた、渋谷区立美術館らしい企画だと思った。
 この展覧会は、プロローグとエピローグを除いては、全10章構成になっており、展示された渋谷ゆかりの芸術家たちの作品は、油彩画、日本画、彫刻、版画、詩稿、手紙、ポスター、装幀・挿絵、家具、建築図面にいたるまで、約151点ほど。会場に入ると、菱田春草の作品がまず目に入る。彼の作品は会期によって異なり、前期は《浜辺の松林》と《鹿》、後期は《落葉》が展示された。私は結局、本展を前期と後期、二回にわたって観ることになったが、やはり展覧会の趣旨に合わせるためにも、《落葉》がプロローグを飾る方がいいと思った。代々木にあった武蔵野の情景を描いた《落葉》は、本格的に「渋谷」を題材にした作品として意義を持っていて、本展はこの作品を「渋谷ユートピア」の始まりとして想定しているためである。
 本展は「渋谷ユートピア」の芸術家たちの作品よりは、彼らの人的ネットワークを紹介することに、力を入れている。Ⅰ章「岡田三郎助と伊達跡画家村」は、渋谷のなかでも最も長い間、美術家たちが寄り添って住んでいたという「伊達跡画家村」(現在の恵比寿三丁目)の紹介から始まる。伊達跡画家村に居住した最初の画家は、1906年12月転居してきた岡田三郎助である。白馬会の創設に関わり、1896年からは東京美術学校西洋画科の助教授に就任し、のちには校長を務めた岡田の周辺に、自然と後輩、弟子たちが集ってきたのが、伊達跡画家村の誕生のきっかけらしい。Ⅱ章「永光舎山洋園と辻永」で細密な植物画を見せた辻永も、岡田三郎助の教え子であったというつながりを持っている。
 かといって、そのような人的ネットワークは、「渋谷ユートピア」展全体を網羅するものではない。言い換えれば、「渋谷」という大きい枠組みのなかで、小さいネットワークが幾つも散在していたという方が正しいだろう。たとえば、岸田劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》と、その背景となった切通しの坂(代々木四丁目)の現在の写真を並べてみせることから始まる、Ⅲ章「切通しの道と草土社――岸田劉生の風景」の場合、岸田劉生を中心に結成された「草土社」の画家たちを集めて紹介している。しかしながら彼らは、Ⅴ章「竹久夢二のモダンとおんな」で登場する、竹久夢二の作品のモチーフになった、彼の周辺にいた三人の女性とは無縁である。同じく、Ⅵ章「詩人画家富永太郎の筆とペン」でも、渋谷に居住していたということ以外には、他の章の芸術家たちとのつながりが薄い、富永太郎の絵画と書物が展示されていた。
 2階の第2展示室で続く、Ⅶ章「フォービズムの風――独立美術協会の周辺」、Ⅷ章「郊外を刻む――版画家たちの代々木グループ」、Ⅸ章「同潤会アパートメントに住む――蔵田周忠と形而工房」、そして、最終章になるⅩ章「安藤照とハチ公と塊人社――昭和前期の彫刻」でも、渋谷で活動した様々な分野の芸術家グループを紹介しているだけで、展示全体を網羅する「中心」はない。彼らに共通しているのは、1900年頃から1945年まで、つまり、明治末期から昭和にいたるまで、「渋谷」で居住しながら創作活動をしていたという事実だけである。

 そうなると、結局「渋谷ユートピア」とは何だったのか。中心がなく、一言で定義できないこのアーティスト・コロニーを、どう捉えたらいいのか。展覧会が観客との対話だとしたら、「相手」が話しかけてくる話題に対して、即答できない時はしばしばある。「渋谷ユートピア」展の場合、会場を一巡しての感想は、膨大すぎる芸術家のネットワークなかで道を迷ってしまいかねない、ともいえよう。
 その際にガイドブックになってくれたのが、本展のカタログである。本展のカタログに収録された瀬尾典昭氏の論文「帝都を望みて武蔵野に住む――ユートピアを夢みるアーティスト・コロニー」は、その「多核性」こそ「渋谷ユートピア」の特徴であると説明している。瀬尾氏によると、谷や丘が多い渋谷は、その複雑な地形を活かしながら、局所的には「迷宮性」を持った発展をし、青山原宿、千駄ヶ谷、恵比寿、道玄坂、代々木など、幾つもコアをもった状態となった。それらが緩やかなネットワークでつながり、渋谷という地域の特性となる。そして、家賃が安いという現実的な理由から、都心に近い郊外・渋谷に移動してきた芸術家たちは、まさにその地域的特性によって、独特な芸術家たちのコミュニティ――すなわち、「渋谷ユートピア」――を形成するのである。

 郊外たる渋谷に、さまざまな美術家が集ってくるようになったのは明治末ころからです。全体的に網羅するようなひとつの、または画一的な傾向をもった集団を形成していた訳ではありません。逆に、渋谷に特徴的な傾向は、明確な計画やコアを作ることなく、中心が分散するように美術家たちが居住するようになったことと言えます。(中略)強いて特徴をあげるならば、そうした小さなグループが散在し、ひとつではなくさまざまな集団同士が交流し盛衰を繰り返していた、ということが言えるでしょう (3)。

 そういえば、この展覧会の趣旨を一番よく反映している章は、Ⅳ章「束の間のユートピア――村山槐多」だと思われる。この章では、本展のタイトルにも影響を与えた、村山槐多を中心にした「代々木ユートピア」が登場した。松濤美術館での2009年の企画展(「没後90年 村山槐多ガランスの悦楽」展)を通して、すでに紹介されたこともある村山槐多は、1918年代々木上原に借家を借りて、自ら「鐘下山房」という門表を張り出していたという。カタログの解説によると、この「鐘下山房」では、杉浦鼎介、山崎省三、水木伸一、今関啓司などの画家たちがほとんど共同生活をしていた。山崎省三の回顧によると、彼ら以外にも大勢の画家仲間が毎日訪ねてきて、「鐘下山房」は若い芸術家たちの交流の場になっていた。彼らは、この空間を「代々木ユートピア」と称していた。「代々木ユートピア」では、お互いの苦労を理解しながら、創作を続ける勇気や、新しいアイデアを得ることもできたのだろう。実際に、村山槐多は1919年亡くなるまで、ここで過ごした短い間、代々木の風景画を8点ほど院展試作展に出品し、美術院賞を受賞したほど、創作に没頭していた。彼らのユートピアになぞらえて、本展のタイトルを「渋谷ユートピア」にしたのは、そのような空間が芸術家たちに与える力を見せたかったためだったのだろう。ここは、芸術家たちの創造の根源をもたらす異境、まさにユートピアそのものであった。

 そうなると、「渋谷ユートピア」は、現在の渋谷の文化的地形図にも影響を与えているともいえよう。瀬尾氏は、この芸術家村の特徴として「若い芸術家が多いことと新陳代謝が激しかった」点を挙げている。彼の指摘の通り、明治から昭和に変わるその時期、旧来の美術体系は、新しい意識をもった美術によって常に変貌を遂げていた。それに関わった「渋谷ユートピア」の芸術家たちは、一つのグループ、一つの地域を越えて広がっていた。それは、都市でもあり郊外でもあった、境界的な場所としての前衛性を持った「渋谷」だったからこそ可能なことであり、まさに、現在の渋谷の姿にも通じ合っているのである。つまり、様々なジャンルの文化がせめぎ合いながら共存し、常に変わりつつある、若者の最新文化の発信地としての渋谷の姿は、「渋谷ユートピア」時代から盛衰を反復しながらも、続いてきたともいえる。カタログの付録に掲載されている、246名にいたる「渋谷の美術家一覧」と、その居住地を表紙した渋谷の地図は、渋谷の文化的地形図そのものとしても読み取れる。
 「渋谷ユートピア」展のエピローグ「都市の遊歩者――谷中安規の《街の本》」は、赤く染まっている版画《渋谷》で締め括られている。ネオンが輝く繁華街の夜を描いている《渋谷》は1933年制作されたが、その風景はネオンサインが明滅する今の渋谷にも重なる。本展のカタログの内紙と、芸術家の居住地を表紙した地図に、珍しくもネオンピンク、ネオンオレンジ、ネオングリーンなどのネオンカラーが使われているのも、もしかすると、私たちがエピローグの以降――「渋谷ユートピア」の時代を、いまも生き続けているということを示したかったためかもしれない。

 最後に、本展と同じく、「都市」を展覧会に仕立てた企画として、同時期世田谷文学館で行われた「都市から郊外へ――1930年代の東京」展(2012年2月11日~4月8日)についても少し言及したい。繰り返しになるが、「渋谷ユートピア」展は、1900年から1945年まで、「渋谷」で活動した様々なジャンルの芸術家たちの膨大な「ネットワーク」の全体図を見せることによって、近代日本美術における「渋谷」という地域の意味を読み直すことを目指したといえよう。それに比べて、「都市から郊外へ」展は、1930年代という時代に、東京の「郊外」として拡大しつつあった「世田谷」地域が、様々な「芸術ジャンル(文学、絵画/彫刻、写真、版画、映画、音楽、住宅、広告)」といかに関わっていたかを重点的に見せてくれる。
 注目すべきことは、両展とも都市の「過去」を語っているものの、「懐古的」展覧会ではないという点であるだろう。川本三郎氏が、東京の「郊外」に着目することで、「古いものが消えて次々に新しい風景が出現していくことに注目していけば、そこに東京の若さ、活力を見ることも可能になる」(4) と言及しているように、両展を通して、観客は「渋谷」と「世田谷」という、かつての「郊外」の前衛性を再認識することで、東京という「都市」が常に変わりつつある、生命力を持つ「生き物」であることを、改めて確認することができると思われるのである。



(1) 「ごあいさつ」3頁。
(2) 「ごあいさつ」3頁。
(3) 瀬尾典昭「帝都を望みて武蔵野に住む――ユートピアを夢みるアーティスト・コロニー」235~236頁。
(4) 川本三郎『郊外の文学誌』(岩波書店、2012年)、35頁。


[展覧会および図録情報]
「開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア1900―1945」展
渋谷区立松濤美術館(2011年12月6日~2012年1月29日)。カタログは、渋谷区立松濤美術館編集・発行、瀬尾典昭企画・構成、2011年、総頁数271。

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