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「渋谷ユートピア 1900―1945」展(98号掲載)任 ダハム

任 ダハム
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』98号、2012年10月、161-165頁

 今更ながら「渋谷」という場所について考えてみた。瞬時に思い浮かんだのは、「若者の街」「東京ファッションの中心地」という、マスコミによって命名された渋谷の別名。そのせいか、渋谷と聞くと、私もつい人波で賑わうスクランブル交差点、SHIBUYA 109などを連想してしまう。しかしながら、渋谷はそれだけでは説明できない、もっと複雑な場所でもある。デパートやファストファッションブランドのお店がたくさん並んでいる一方、自主映画を上映する小さい映画館や、インディーズ系のライブハウスが群がっている街――複雑で、常に変わりつつある、若者の最新文化の発信地。現在の渋谷は、若い。そして、早い。
 ところで、「渋谷ユートピア 1900―1945」展は、現在の渋谷を見るに際し、より新しい視点を観客に提示してくれた展示であったといえる。展示室の入り口には、この展覧会に対して「渋谷ユートピア」というタイトルを付けた所以が説明されていた。

 近代においては、東京とその周辺には幾つものアーティスト・コロニー(芸術家村)が生まれました。田端文士村、池袋モンパルナス、落合文士村、馬込文士村、もっと周辺には我孫子文士村、浦和アトリエ村などがあります。それらにならんで渋谷を、美術家が集り、住み、交流をもったアーティスト・コロニーとしてとらえることも可能ではないでしょうか。ここではそれを、村山槐多と仲間たちの夢になぞらえて「渋谷ユートピア」と名付けました (1)。

 本展が開かれた松濤美術館が「渋谷区立美術館」であることを、実は今回改めて認識した。確かに「渋谷に住んだ美術家あるいは渋谷を描いた画家を取り上げ、美術家たちのユートピアとも言える、かつての渋谷の姿を再発見しようとする」(2) この展覧会の趣旨は、開館30周年記念展を兼ねた、渋谷区立美術館らしい企画だと思った。
 この展覧会は、プロローグとエピローグを除いては、全10章構成になっており、展示された渋谷ゆかりの芸術家たちの作品は、油彩画、日本画、彫刻、版画、詩稿、手紙、ポスター、装幀・挿絵、家具、建築図面にいたるまで、約151点ほど。会場に入ると、菱田春草の作品がまず目に入る。彼の作品は会期によって異なり、前期は《浜辺の松林》と《鹿》、後期は《落葉》が展示された。私は結局、本展を前期と後期、二回にわたって観ることになったが、やはり展覧会の趣旨に合わせるためにも、《落葉》がプロローグを飾る方がいいと思った。代々木にあった武蔵野の情景を描いた《落葉》は、本格的に「渋谷」を題材にした作品として意義を持っていて、本展はこの作品を「渋谷ユートピア」の始まりとして想定しているためである。
 本展は「渋谷ユートピア」の芸術家たちの作品よりは、彼らの人的ネットワークを紹介することに、力を入れている。Ⅰ章「岡田三郎助と伊達跡画家村」は、渋谷のなかでも最も長い間、美術家たちが寄り添って住んでいたという「伊達跡画家村」(現在の恵比寿三丁目)の紹介から始まる。伊達跡画家村に居住した最初の画家は、1906年12月転居してきた岡田三郎助である。白馬会の創設に関わり、1896年からは東京美術学校西洋画科の助教授に就任し、のちには校長を務めた岡田の周辺に、自然と後輩、弟子たちが集ってきたのが、伊達跡画家村の誕生のきっかけらしい。Ⅱ章「永光舎山洋園と辻永」で細密な植物画を見せた辻永も、岡田三郎助の教え子であったというつながりを持っている。
 かといって、そのような人的ネットワークは、「渋谷ユートピア」展全体を網羅するものではない。言い換えれば、「渋谷」という大きい枠組みのなかで、小さいネットワークが幾つも散在していたという方が正しいだろう。たとえば、岸田劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》と、その背景となった切通しの坂(代々木四丁目)の現在の写真を並べてみせることから始まる、Ⅲ章「切通しの道と草土社――岸田劉生の風景」の場合、岸田劉生を中心に結成された「草土社」の画家たちを集めて紹介している。しかしながら彼らは、Ⅴ章「竹久夢二のモダンとおんな」で登場する、竹久夢二の作品のモチーフになった、彼の周辺にいた三人の女性とは無縁である。同じく、Ⅵ章「詩人画家富永太郎の筆とペン」でも、渋谷に居住していたということ以外には、他の章の芸術家たちとのつながりが薄い、富永太郎の絵画と書物が展示されていた。
 2階の第2展示室で続く、Ⅶ章「フォービズムの風――独立美術協会の周辺」、Ⅷ章「郊外を刻む――版画家たちの代々木グループ」、Ⅸ章「同潤会アパートメントに住む――蔵田周忠と形而工房」、そして、最終章になるⅩ章「安藤照とハチ公と塊人社――昭和前期の彫刻」でも、渋谷で活動した様々な分野の芸術家グループを紹介しているだけで、展示全体を網羅する「中心」はない。彼らに共通しているのは、1900年頃から1945年まで、つまり、明治末期から昭和にいたるまで、「渋谷」で居住しながら創作活動をしていたという事実だけである。

 そうなると、結局「渋谷ユートピア」とは何だったのか。中心がなく、一言で定義できないこのアーティスト・コロニーを、どう捉えたらいいのか。展覧会が観客との対話だとしたら、「相手」が話しかけてくる話題に対して、即答できない時はしばしばある。「渋谷ユートピア」展の場合、会場を一巡しての感想は、膨大すぎる芸術家のネットワークなかで道を迷ってしまいかねない、ともいえよう。
 その際にガイドブックになってくれたのが、本展のカタログである。本展のカタログに収録された瀬尾典昭氏の論文「帝都を望みて武蔵野に住む――ユートピアを夢みるアーティスト・コロニー」は、その「多核性」こそ「渋谷ユートピア」の特徴であると説明している。瀬尾氏によると、谷や丘が多い渋谷は、その複雑な地形を活かしながら、局所的には「迷宮性」を持った発展をし、青山原宿、千駄ヶ谷、恵比寿、道玄坂、代々木など、幾つもコアをもった状態となった。それらが緩やかなネットワークでつながり、渋谷という地域の特性となる。そして、家賃が安いという現実的な理由から、都心に近い郊外・渋谷に移動してきた芸術家たちは、まさにその地域的特性によって、独特な芸術家たちのコミュニティ――すなわち、「渋谷ユートピア」――を形成するのである。

 郊外たる渋谷に、さまざまな美術家が集ってくるようになったのは明治末ころからです。全体的に網羅するようなひとつの、または画一的な傾向をもった集団を形成していた訳ではありません。逆に、渋谷に特徴的な傾向は、明確な計画やコアを作ることなく、中心が分散するように美術家たちが居住するようになったことと言えます。(中略)強いて特徴をあげるならば、そうした小さなグループが散在し、ひとつではなくさまざまな集団同士が交流し盛衰を繰り返していた、ということが言えるでしょう (3)。

 そういえば、この展覧会の趣旨を一番よく反映している章は、Ⅳ章「束の間のユートピア――村山槐多」だと思われる。この章では、本展のタイトルにも影響を与えた、村山槐多を中心にした「代々木ユートピア」が登場した。松濤美術館での2009年の企画展(「没後90年 村山槐多ガランスの悦楽」展)を通して、すでに紹介されたこともある村山槐多は、1918年代々木上原に借家を借りて、自ら「鐘下山房」という門表を張り出していたという。カタログの解説によると、この「鐘下山房」では、杉浦鼎介、山崎省三、水木伸一、今関啓司などの画家たちがほとんど共同生活をしていた。山崎省三の回顧によると、彼ら以外にも大勢の画家仲間が毎日訪ねてきて、「鐘下山房」は若い芸術家たちの交流の場になっていた。彼らは、この空間を「代々木ユートピア」と称していた。「代々木ユートピア」では、お互いの苦労を理解しながら、創作を続ける勇気や、新しいアイデアを得ることもできたのだろう。実際に、村山槐多は1919年亡くなるまで、ここで過ごした短い間、代々木の風景画を8点ほど院展試作展に出品し、美術院賞を受賞したほど、創作に没頭していた。彼らのユートピアになぞらえて、本展のタイトルを「渋谷ユートピア」にしたのは、そのような空間が芸術家たちに与える力を見せたかったためだったのだろう。ここは、芸術家たちの創造の根源をもたらす異境、まさにユートピアそのものであった。

 そうなると、「渋谷ユートピア」は、現在の渋谷の文化的地形図にも影響を与えているともいえよう。瀬尾氏は、この芸術家村の特徴として「若い芸術家が多いことと新陳代謝が激しかった」点を挙げている。彼の指摘の通り、明治から昭和に変わるその時期、旧来の美術体系は、新しい意識をもった美術によって常に変貌を遂げていた。それに関わった「渋谷ユートピア」の芸術家たちは、一つのグループ、一つの地域を越えて広がっていた。それは、都市でもあり郊外でもあった、境界的な場所としての前衛性を持った「渋谷」だったからこそ可能なことであり、まさに、現在の渋谷の姿にも通じ合っているのである。つまり、様々なジャンルの文化がせめぎ合いながら共存し、常に変わりつつある、若者の最新文化の発信地としての渋谷の姿は、「渋谷ユートピア」時代から盛衰を反復しながらも、続いてきたともいえる。カタログの付録に掲載されている、246名にいたる「渋谷の美術家一覧」と、その居住地を表紙した渋谷の地図は、渋谷の文化的地形図そのものとしても読み取れる。
 「渋谷ユートピア」展のエピローグ「都市の遊歩者――谷中安規の《街の本》」は、赤く染まっている版画《渋谷》で締め括られている。ネオンが輝く繁華街の夜を描いている《渋谷》は1933年制作されたが、その風景はネオンサインが明滅する今の渋谷にも重なる。本展のカタログの内紙と、芸術家の居住地を表紙した地図に、珍しくもネオンピンク、ネオンオレンジ、ネオングリーンなどのネオンカラーが使われているのも、もしかすると、私たちがエピローグの以降――「渋谷ユートピア」の時代を、いまも生き続けているということを示したかったためかもしれない。

 最後に、本展と同じく、「都市」を展覧会に仕立てた企画として、同時期世田谷文学館で行われた「都市から郊外へ――1930年代の東京」展(2012年2月11日~4月8日)についても少し言及したい。繰り返しになるが、「渋谷ユートピア」展は、1900年から1945年まで、「渋谷」で活動した様々なジャンルの芸術家たちの膨大な「ネットワーク」の全体図を見せることによって、近代日本美術における「渋谷」という地域の意味を読み直すことを目指したといえよう。それに比べて、「都市から郊外へ」展は、1930年代という時代に、東京の「郊外」として拡大しつつあった「世田谷」地域が、様々な「芸術ジャンル(文学、絵画/彫刻、写真、版画、映画、音楽、住宅、広告)」といかに関わっていたかを重点的に見せてくれる。
 注目すべきことは、両展とも都市の「過去」を語っているものの、「懐古的」展覧会ではないという点であるだろう。川本三郎氏が、東京の「郊外」に着目することで、「古いものが消えて次々に新しい風景が出現していくことに注目していけば、そこに東京の若さ、活力を見ることも可能になる」(4) と言及しているように、両展を通して、観客は「渋谷」と「世田谷」という、かつての「郊外」の前衛性を再認識することで、東京という「都市」が常に変わりつつある、生命力を持つ「生き物」であることを、改めて確認することができると思われるのである。



(1) 「ごあいさつ」3頁。
(2) 「ごあいさつ」3頁。
(3) 瀬尾典昭「帝都を望みて武蔵野に住む――ユートピアを夢みるアーティスト・コロニー」235~236頁。
(4) 川本三郎『郊外の文学誌』(岩波書店、2012年)、35頁。


[展覧会および図録情報]
「開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア1900―1945」展
渋谷区立松濤美術館(2011年12月6日~2012年1月29日)。カタログは、渋谷区立松濤美術館編集・発行、瀬尾典昭企画・構成、2011年、総頁数271。


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