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「映像と展覧会――第三回恵比寿映像祭の試み」(97号掲載)堀江秀史

堀江秀史
執筆時:東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程
雑誌情報:『比較文學研究』97号、2012年10月、165-171頁

 映像と展覧会は、相性が悪い。
 「メディア」という語を、例えば映画メディアであれば不特定多数の観客が暗闇の中で同じ方向を向いて、白い巨大なスクリーンからの反射光を座りながら観賞するものであり、あるいは展覧会メディアであれば、多くのオリジナル作品・資料を鑑賞者が自由に時間配分して眺め歩くものである、というように、ある表現がオーディエンスに渡るための機構全体を指すものであると仮に定義すれば、それらの相性の悪さは、両メディアの性質に起因していると云えるだろう。
 映画館では、千八百円という対価を払うと、およそ二時間、(混んでさえいなければ)心地よい一人用のソファの独占権が与えられ、そこでは周りに迷惑のかからない範囲であれば何をしても許される。ポップコーンとコーラで小腹を満たすもよし、暗闇とその中で揺れる反射光のもたらすわざか、蠱惑的な眠気に身を任せるもよい。もちろん、映画の物語に没入することも可能だ。スクリーンの俳優は文句を云わない。隣の客も、映画館主も同様だ。フィルムの回転が持続するあいだ、観客は外の現実から隔離されて、安全な夢を見る。 (1)
 展覧会場のゲートは、映画のおよそ半額を支払うとくぐることが許される。費やすべき時間は予め決められてはいない。早歩きで横眼に作品を見ながら、五分で切り上げることもできるし、閉館まで一日中お気に入りの作品の前で陣取ることも可能である。だが、「きちんとした」見方で会場を廻るとすれば、おそらくおおよそ一~二時間が限度というところではないだろうか。様々なパネル説明を読みつつ、オリジナル作品に対峙し、さらに展示の仕方や配列からキュレーターによって巧まれた言外の批評をも読みとろうとするならば、歩き回る体力のみならず思考力も大いに使うこととなり、疲労感は予想以上に強い。あるいは、気になる作品を間近で見ようとするときに感じる監視員の視線も、この疲労の一因かもしれない。ともかくも、展覧会において、読書にも似た能動性から生ずる頭に感じる疲労感は、長時間の滞在を許さない。そして、そうであるからこそ、展覧会における鑑賞時間を配分する自由は、鑑賞体験を左右する重大なメディア的要素として数えなければならない。
 かくも「疲れる」展覧会に映像が展示されるとどうなるか(映像を使った新しい体感を目指すインスタレーションは除く)。
 映像作品は、通常始まりと終わりがあり、その全体が一作品である。自然、通常の作品・資料のようにただ「置く」わけにはいかなくなってくる。展覧会場で映像作品を「展示」する方法として最も一般的なのは、エンドレスでループ再生するという方法である。この場合、映像作品が始まるときにちょうどそこを通りかかることは稀で、鑑賞者は映像作品を途中から観て結末を確認し、再度始まった作品の途中で、ああ、ここからはすでに観た、と思いながら、結局再度通して観たり、そこで席を立ったりする。また、映画のようにスクリーンに光を投射するというスタイルを採ることは稀である。小型の受像機や通常テレビの受信に使う画面に像を映すというスタイルがほとんどだ。それらは発光体なので、映画館のように周りを暗くする必要はない。周りから隔絶されることもなく、現実と地続きの空間で、我々は映像を観ることを強いられる。知的な疲労と相談しながら歩かなければならない鑑賞者にとって、時間配分の自由を阻害し、映像の世界に没入することを許さない、「展示された」映像作品は、やっかいな存在として心に引っかかる。(観賞すると決めたならば)一つの作品に対して自動的に一律数分消費することを要請する映像作品は、展覧会メディアの特性に真っ向から抗う性質を持っているのである。
 映画や映像を、映画メディアを介して享受する体験に「慣れている」私は、映像をそのような観賞形態で「展示」されるにつけ、次のような疑問を抱かずにはいられない。
即ち、展示する側は、この映像を本当に観てほしいのだろうか? と。

 ところで、映画と展覧会が取り結ぶ関係を分類すると、大きく三つの種類を想定できる。一つには、展示の一部に映画作品を持ってくるという方法があり、すでに述べたようにメディア的な矛盾を孕んでいて悩ましい。二つ目には、映画に関連する資料(生原稿やポスターなど)を展示する、という方法があり、これは展覧会によく馴染む。国立フィルムセンター(京橋)の現在の常設展などはその好例だといえよう。 (2)
 三つ目は、広義の展覧会としての映画祭である。そもそも、映画は約二時間かけてひとつの作品を観るものだが、展覧会は、およそ1~2時間かけて百点あるいはそれ以上の作品を見る。先に述べた映画と展覧会の比較は、展覧会を、独自の収集方針や展示の仕方によってパッケージング(包括)された二次的著作物として、即ち一つの企画展をひとつのメタ作品として見做した場合(映画一本と展覧会一つという一対一対応)にもたらされるものであるが、両メディアの呈示する作品数に着目すれば、映画祭と展覧会のほうが形態的な類似性を持っていることが分かる。ともに一定の規準のもと複数の作品を一堂に介して、作品と観客との出会いを組織する場であるからである。映画祭は、映画作品に特化した(それゆえ時間的、空間的規模の大きな)展覧会であると云って良いだろう。映画祭という特殊な「展覧会」と映画は、調和して存在する。
 問題はやはり、展覧会に映画、映像が単体作品として展示される場合の関係性という一点に絞られてくる。

 展覧会はいかに映像を展示すべきか、あるいは映像はいかに展覧会という発表の場を利用すべきか、こうした問いへの回答を、具体的な作品に沿って様々なかたちで示すのが、恵比寿映像祭である。
 東京都写真美術館にて、2008年のプレ・イヴェントを経て、09年から毎年2月に約10日間に渡って、入場無料で開催されているこの映像祭の面白さは、「映像とは何か?」という問いを継続して持ち続ける中で、同時に映像はいかに展示され得るか、あらゆる可能性を試し続けている点にある。当然それは、展示する側(美術館)だけの問題ではない。そこで紹介される一部の映像の作り手もまた、展覧会メディアを介して人に伝わることに対して意識的である。映像の展示と、展覧会での発表を目指した映像、双方の企みが交錯する場が、恵比寿映像祭という展覧会なのである。「デイドリーム・ビリーバー」と題された第三回恵比寿映像祭(2011年2月18日~27日)の展示に沿って、その実際を以下確認したい。
 「映像祭」という名前からも分かる通り、もっとも大枠において、この展覧会は映画祭のスタイルを踏襲している。主会場である写真美術館は一階に映写室が備えてあり、そこでは連日、テーマに沿った、現在日本で観ることの難しい映画が上映される。その他、講演、公開討論、音楽と映像のライブイベントが館内で行われる。外へ出ると、恵比寿ガーデンプレイスセンター広場でインスタレーションも催されている。「地域連携」として、渋谷区恵比寿に籍を持つ、日仏会館、チェコセンターなど十二の施設で映像に関する様々な催しも展開されている。総力態勢で期間中の恵比寿を盛り上げていく姿勢が窺えるだろう。堪能しようとすれば何度も足を運ばなければならないこと、また一つの建物だけでは収まらない空間的な展開があることは、この映像祭が映画祭の特色を色濃く持っていることを示している。
 しかし、ここで注目したいのはやはり、狭義の展覧会としての恵比寿映像祭である。会期中、無料で開放された写真美術館三階から、映写室のある一階を除く地下一階までの計三フロアに跨る展示スペースには、多くの映像作品が様々な工夫の上で展示されており、それらは一度行けば充分に堪能できる。こちらだけを問題とするならば、通常の企画展同様、パッケージング(包括)されたひとつのメタ作品としてこの映像祭を捉えることができるだろう。
 三階から観始めるよう案内が出ているので、エレベーターで三階へと上がって、展覧会鑑賞を始める。入ってすぐ、暗い通路の中央に、比較的小さなスクリーンを天井から吊り下げて映し出されるのは、アピチャッポン・ウィーラセクタンの《窓》(1999)である。

「窓からテレビの画面に映り込んだ陽射しをカメラ越しに見ると、不思議なエフェクトとなって映し出されることに気付いた。その光の作用は、肉眼では直接感知することができないが、一方で、カメラを持つ撮影者の動きに応じて微細に変化した。 (3)」

 とキャプションにはあるが、映像だけを見る限り、どこかの建物と風景が映っている、という印象だけが伝わる。通路に展示されているので、正面と背面から、反射光と透過光によって映し出される像が鑑賞できる。光が揺れるさまが美しいが、特に立ち止まって観るわけではない。オープニング作品として「飾って」あるという印象である。
 この展覧会は、フロア毎に作品の傾向を分けている。皮切りの三階は、機械の眼を介さない限り得られない、映像表現の可能性を探求した諸作品の展示であった。肉眼では捉えられない、ミルクの雫が王冠を描くさまを捉えた有名な、ハロルド・ユージーン・エジャートン《ミルク・クラウン》(1957)の写真をほのかに照らす以外、照明はかなり抑えられていて、映像を堪能するための空間作りは万端だ。映像のテクノロジーに主眼を置いたこのフロアの代表といえるのは、ダニエル・クルックスによる《スタティック№12(動きの中に静寂を求む)》(2010)だろう。太極拳を舞う白髪の男性が、5分強の作品再生時間をかけて、次第に横に引き伸ばされていく。言葉による説明を拒否する、デジタル技術を駆使したこの作品はかなり大きく映し出されていたので、投射による反射光で展示されていたはずである
 二階の作品は、意識下を映像化することをコンセプトとしたものが多かった。ヤン・シュバンクマイエルによる、コマ撮りが特徴的なシュルレアリスティックなアニメーションがその代表例だろう(105分の作品自体は映写室での上映プログラムに組み込まれている)。マニュアルな作業で作られるアニメーションの、制作に使われた(あるいはその過程で生まれた)資料(美術品)の展示が二階フロアでは目立っている。三階とは異なり比較的明るく照らされていた二階は、映像に関する原資料の展示という、従来見られる展示スタイルが主であった。
二階から地下一階へ降りる途中、しりあがり寿の《白昼夢夫人》(2006-07)が小型受像機で階段の両脇に並べてある(全15種)。白黒で三分程度の各作品は、モダンな洋館で昼寝をする夫人がナンセンスな夢をみる、というもので、全て「夢オチ」であることがすぐに分かるため、一つ一つきちんと見なければ、という(展覧会で抱くことの多い)強迫観念は生まれてこない。ほのかなエロティシズムとナンセンスが混淆して、地下一階のコンセプトである現実と夢(映像)が混淆するという事態への橋渡し的な役割を果たす。
 それらを見ながら辿りつく地下一階の展示室では、最初に、同じくしりあがり寿の《ゆるめ~しょん : sleep》シリーズ作品(2010)が小型受像機で再生するかたちで幾つも並べられている。暗い部屋に天井から十数本の白いベールを垂らして、その中に各スクリーンを閉じ込めており、映像の白い光が間接照明として各所でぼうっと浮かび上がるっており、総合テーマの通り、白昼夢の空間へと迷い込んだ感がある。近づけば、その中でちょこちょこと動き回る、大雑把に描かれた鉛筆画のような「おじさん」のアニメーションが流れている点も、幻想的な部屋との落差があって面白い。その他ここでは、社会と映像との接点を捉える作品が展示されている。インターネットへの匿名投稿における複数の主婦の言葉を同一の女優が語る森弘治の《Re:》(2009)、ネット内空間「セカンド・ライフ」を使ったツァオ・フェイの《RMB シティの誕生》(2009)。私は最後に、ハルン・ファロッキの、米軍の、映像を使った軍事訓練を取材したドキュメンタリー、《シリアス・ゲーム》を観た。
 「デイドリーム・ビリーバー」、即ち映像を、起きながらにしてみる夢として捉えるというコンセプトに沿って、テクノロジー的な側面から始まり(三階)、意識の底をえぐるような映像の力にも焦点をあて(二階)、展示が進むごとに映像によって夢と現実の境界があいまいになっていく(二階~階段~地下一階)。かといって、それは芸術の問題だけに止まってはいない。社会的、政治的な利用もされる(地下一階)。それを批評的な眼差しで捉えるのもまた、映像である(《シリアス・ゲーム》のように)。各階内でどのような順序で作品を見るかはもちろん自由なので、訪れた人によって結論は分かれるところだろうが、この展覧会から私はそのようなメッセージを読みとった。
 ここで紹介したほか、刺戟的な作品は多く存在した (4)。本論の展開上、その全てを紹介できないのが残念だが、以上が狭義の展覧会として捉えた場合の恵比寿映像祭の全体像の概略である。

 映像の展示、展覧会メディアに適した映像、という問題への回答の一つは、先に紹介したしりあがり氏の作品説明が示唆している。「生真面目に鑑賞するというよりも、絵画のように空間のなかにあって、時折眺め見ることができるようなありかたが理想」(5) だという氏の、展覧会メディアの特性を踏まえたコンセプチュアルかつ詩的な幾つもの作品は、映像内容のナンセンスさと反復性、複数性、また、小型の受像機で再生し、決してその前に椅子など置かないという展示姿勢(階段に展示したことなどはそのコンセプトを活かしきった技である)によって、輝きを放っていた。
 いま、「映像内容のナンセンスさ」と記したが、これは、冒頭の命題、即ち映像と展覧会、両者のメディア的性質が引き起こす摩擦を解消する鍵となるのではないか。「ナンセンスさ」とは、言語への置き換えの不毛性、あるいは不可能性という意味でもある。「あらすじ」への転換がほとんど意味をなさない、と云う方が正確かもしれない。言語へ置き換えるならば、あくまで「描写」の域に留まるのがそうした作品の特徴だ。考えてみれば、ウィーラセクタンの《窓》も、クルックスの《スタティック》も同様の作品であり、それらは通路に置かれたり、椅子を用意しなかったりと、展示上の工夫が施されていた。これらの作品にあっては、映像には始まりと終わりがある、という認識はほとんど意味を持たず、展覧会に訪れる者の心理的負担になることはない。もっとも、意味を持たないかどうかは最後まで観ないと分からないのではないか、という意見も当然あるだろう。しかし、これらの作品は作品自体の持つ力によって、そうであることが一目で了解できるように作られている(その理由は個別の作品を詳細に分析することで見出していくしかないだろう)。とはいえもちろん、立ち止まって飽くまで眺めることも自由である。

 こうした事情は、カタログの図版と実作品を比べてみたとき、一層明らかになる。
 そもそも、映像、映画は、時間の流れの中でしか生起しない存在である。もとより図版として紙の上に固定できるものではない。そのため、絵画や写真のようには、カタログの図版によって視覚情報に関するおおよその全体を掴むことはできない。こうしたことは、比較芸術研究の中でも、映画と漫画 (6)、あるいは映画と写真 (7)の関係を考察する中で、より根源的なジャンル間の問題としてすでに指摘されている。映像から静止画への転換という問題はあるにせよ、これまで、映画のカタログ、パンフレットは、当該映画作品を取りまく補足的な文字情報を主軸に、彩り程度にどこか印象的な映画のシーンを抜き出して、あるいは別途撮られたスチル写真を添えるというスタイルで出版されてきた。恵比寿映像祭のカタログも、こうした従来の(映画)カタログのスタイルを踏襲した作品紹介が大半だが、先に挙げた幾つかの作品に限っては、絵画や写真の図版と同様、紹介のために付された一枚~数枚の図版を眺めるだけで、作品の大よそが理解できる。こうした傾向が最も顕著なのは、運動する人物が緩慢に左右両端へと引き伸ばされるクルックスの《スタティック》シリーズだろう (8)。ウィーラセクタンの作品も、図版から伝わるニュアンスと実作品の映像そのものから受ける印象とに大きな乖離はない。上映時間という概念を無効にするという反映像的な特性を持った映像作品が確固として存在していることの証左と云えよう。
 ちなみにその一方で、インスタレーション作品の図版は、残念ながらほとんど役に立たない。これには、会期前(即ち展示が未だできていない段階)にカタログを刊行しなければならないという事情も多分に影響していることだろう。作品個々に「役に立たない」と述べざるを得ない理由はあるが、例えばタニア・ルイス・グティエレスの実際の出品作品は《フィルム・ファウンテンズ》なる模型を主とした作品であったが、カタログにはこれ以前にカナダで行われた《時の壺》なるインスタレーション作品の図版が掲載されている。図版、解説ともに、出品作品の難解さを克服する手立てとはならなかったように思う。
 映像祭の中味を一冊にまとめたカタログは、以上のように様々な作品を並列に並べており、それぞれが個別にジャンル間の考察をもたらし得るが、それでは、このカタログが、全体として持つ意味とは何だろうか。カタログは、年毎に設定されるテーマの狙いを記した岡村恵子氏の巻頭論文のほか、二本の小論文と一本の対談、そして、展示作品、映画館上映作品、関連イベント、作家情報等、映像祭の全容がコンパクトにまとめられ、英語併記で掲載するというものだ。各国の最先端の映像作品・作家の紹介という事情もあり、会期の終わった現在から見るならば、このカタログは研究成果というよりは、恵比寿映像祭の試みの記録として捉えるべきものだろう。しかし、リアルタイムの展覧会を考慮に入れるならば、このカタログは、国内ではその作家の名前すら聞いたことのないような未知なる作品に触れる来場者たちが、会場で適宜参照するための「地図」としての役割を最も重視して作られているように思う。
 写真美術館を中心に、恵比寿全体で行われる、展示、上映、イベントを、会期中存分に堪能できるように、論文部分は極力抑えられ、カタログは作品解説、あるいはガイド情報を中心にして可能な限りコンパクトに構成されている(それでも第三回のものは前二回に比べて倍くらいの厚みがあるが)。一つの作品に与えられた見開き二頁という紙幅の上下左右に取られた充分な余白からは、実際に作品を前にしたときの感覚を、会場を回りながら書き込めるようにという配慮が読みとれる。簡素な製本(ソフトカバー、ジャケット無)は、本棚に収められるのでなく、行く先々であちこちをめくり開かれ、使い倒されることを望んでいるように映る。先に述べた刊行までの時間的制約によって不十分な記述となっている情報は、自分で上書きしていかなければならない。本展評の主旨に沿えば、作品展示に関して、どのように展示したのか、音の出力はどうか(ヘッドホンなのかスピーカーなのか)、どのような椅子を用意したあるいはしなかったのか等、美術館側が用意した鑑賞形態の情報も、自ら足していったほうが良いだろう。それらは、美術館(博物館)が新しい展示を見出し発展していくためにも、映像がどのように発表の場を開拓していくかを見守る上でも、重要な手掛かりとなる筈である。映像の可能性を「作り手」、「結び手」(美術館)そして「受け手」が皆で考える場として開催される映像祭 (9)にふさわしいカタログだと云えよう。「受け手」が携行して自らの手で情報を補完していく「白地図」が、第三回恵比寿映像祭のカタログなのである。

 以上、実際の展示とカタログから、映像と展覧会の関係について論じてきた。
ある絵画を見るために、特別に椅子を用意する展覧会はない(休憩用に置かれることはあっても)。絵画や写真を動かしたい、という熱意から生まれた映像が、展覧会メディアに発表の場を移すことで、今度は絵画や写真のように見られたい、という欲求を持ち始めている。そうした感覚を鋭敏に受け止めて展示する受け皿となり得ているのが、恵比寿映像祭なのである。もっともこれは、映像と展示をめぐる問題への答えの一例に過ぎない。この映像祭が引き続き歴史を重ねることで、さらなる回答が提示されていくことを願いたい。

※本論は、東大比較文学会ホームページの「寸評」欄に掲載された「第三回恵比寿映像祭」の報告に加筆、修正を加えたものである。アドレスは以下。/bb/2011/02/post_21.html



(1) もちろんこうしたステレオタイプなメディア観の反証となる作品はいくらでもある。個人の作る実験映画の多くはそのようなメディア観を逸脱するものであるし、例えば寺山修司(1935‐83)はこのような映画メディアに対する観客の受動的な態度を、実作において厳しく問い直した。だが、そうした映画が「実験」と呼称されていることが相対的に示すように、本流はあくまで本文中に記したような映画メディア観であると云えるだろう。
(2) 現在の常設展の母体となった企画展「映画遺産」展(東京国立美術館フィルムセンター、会期2002~03年)のカタログを参照。
(3) 『第三回恵比寿映像祭』カタログ、42頁。
(4) 本論で扱いたいのは「映像と展覧会」であるため、特別な設備を必要とする(従って映像以外の要素にも作家の意思が介入する)インスタレーション作品は敢えて取りあげなかった。もちろんインスタレーションと展覧会は、展覧会が本来、そこでしか見られないオリジナル作品を展示することが魅力のひとつであることを考えても、相性が良い。筆者が第三回恵比寿映像祭において最も面白く感じたのは、そうしたインスタレーション作品のひとつ、ダヴィッド・クレルボの《幸福なモーメントの諸断面》(2007)であった(東大比較文学会ホームページに詳細あり)。
(5) 岡村恵子氏による作家紹介文。『第三回恵比寿映像祭』カタログ、68頁。
(6) 四方田犬彦「映画の隣人」『漫画原論』(筑摩書房、1994、ちくま学芸文庫、1999)
(7) 佐々木悠介「エルヴェ・ギベールとアンリ・カルティエ=ブレッソン――もう一つの写真論のために」『超域文化科学紀要』第一一号、東京大学総合文化研究科、2006年、5‐22頁。
(8) 『第三回恵比寿映像祭』カタログ、45‐47頁の図版参照。
(9) 同カタログ、9頁。

[展覧会及び図録情報]
「第三回恵比寿映像祭 デイドリーム・ビリーバー‼」
 東京都写真美術館その他(2011年2月18日~27日)。図録は宮沢章夫他執筆、岡村恵子他編集、東京都写真美術館発行、2011年、総ページ数215。
※展覧会名に関しまして、『比較文学研究』97号で、誤植がありました。正しくは、「恵比寿映画祭」でなく「恵比寿映像祭」となります。この場をお借りして訂正させて頂きます。


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