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カタログ評『大正シック展』(91号掲載)深見 麻

深見 麻
執筆時 :東大比較文学会 学会員
雑誌情報 : 『比較文學研究』91号、2008年06月、169-173頁

 会場(1) を一巡しての感想は、とにかく優美で美しく、見た目に心地よい展覧会だということであった。「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」は二〇〇二年にホノルルで開催され、その後米国本土を回って、五年経った今年日本に巡回となったもので、大正から昭和戦前期にかけて――特に一九二〇年代から一九三〇年代のものを中心として――の絵画(日本画、版画)、工芸品、女性の着物、歌本(流行歌の歌詞を書いた小冊子)などを題材に、当時の日本社会が抱えていた「近代」と「伝統」の間の葛藤と妥協、調和を読み取ることを試みている。絵画だけでなく、工芸品や着物、歌本など通常の美術展では一同に会することの少ない展示品の構成もおもしろかったが、そうした品々がかもし出す女性らしい、華やかな雰囲気が会場を支配していたことも興味深かった。
しかしカタログを注意深く読むと、展覧会の焦点はこれら見た目に美しい作品そのものではなく、それを形作った政治力学であることが見えてくる。カタログに収録された唯一の論文「大正の花々 日本女性のイメージ その社会と芸術 1915~1935」において、この展覧会の実質的な企画者でカタログ主著者であるケンドール・ブラウンは、大正から昭和初期にかけて日本社会で交わされた、近代日本に望ましい女性像をめぐる正反対の二つのイメージの論争――ひとつは近代=西欧風の思想や生活に過度に染まったと見られたモガ、もう一つは封建的・伝統的な女性像――に当時の「近代」と「伝統」をめぐる葛藤の投影を見、視覚メディアとして美術品もその論争から無縁ではなかったことを論じている。(2) ブラウンの分析の主眼は、モガ像、伝統女性像そのものにあるのではない。この両極端のイメージが、如何に互いに影響しあってそれぞれの極端さを減じ、社会的に好ましい折衷型美人のイメージに修正されていったかを示すことにある。この論点を持ち出すことによって彼は、漫画や写真、洋画に比べてモガ像そのものが描かれることが少ない日本画の世界において、近代的な女性の表象を多面的に語ることを可能にするとともに、伝統的な女性の表象まで分析に取り込み、より広い地平で日本画の近代を描き出すことに成功している。この小評では、企画者である彼の論点と分析手法を中心としてこの展覧会を評価することとしたい。
そもそもアメリカにおける近代日本画研究は、長く不遇をかこってきた。アジアの伝統美術は一九世紀以降衰退したため、蒐集の価値がないという偏見があったからである (3)。そこには、近代(=西洋)化以前の“伝統的な”作品を最上のものとし、近代的なモチーフ、技法を取り入れたものを劣化と取る、非西洋の文化を永遠の過去に置いてみようとするような非歴史的なものの見方、サイードの言うオリエンタリズムの要素が濃く見える。しかし一九九〇年代以降、そうした偏見の見直しが進んでおり、(4) 今回の日本展は、アメリカの近代日本美術観を知る上でも我々日本人にとって興味深いものと言える。(5) カタログ主著者のブラウンは、過去の著作(展覧会カタログ)(6) において、新版画を従来の浮世絵の劣化版としてではなく、大正の文化を反映した独自の芸術として見直すという観点を打ち出した、新しい潮流の近代日本美術研究者の一人である。今回の展覧会も過去の著作のアイデアを踏まえつつ、更に発展させたもので、彼の個性がよく発揮されているように思える。
具体的な分析において特徴的な点を挙げれば、一つは分析の対象が、画面に描きこまれた小道具、背景、人物の服装といった表面的で分かりやすいものから、仕草、表情といった内面的なもの、また様式や画題、色彩、構図などと幅広く、解釈は日本人から見れば意外性に富んだものが多いことである。例えば、山川秀峰による《婦女四題 秋》(一九二七年)(cat.no.4)の解説では、流行の髪型と着物に身を包んだ和装のモガに、季節に仮託して様々な女性像を描く伝統的な画題が適用されたことに着目し、モガたちが社会に脅威を与えるような新しい存在ではなく、「これまでの世代と比較して本質的でなく、むしろ外観だけが違うもの」 (7)に変換されたことを指摘している。これは、新聞雑誌などのモガに関するルポルタージュを題材になされたミリアム・シルバーバーグの研究(8) における指摘――ファッションや生活態度の特異さに焦点を置くことで、現実社会において起こっていた女性の政治への目覚めや、労働争議への参加といった本当の意味で当時としては反社会的、「反逆的」な動きをモガ像から切り離し、性的放縦さや軽薄な享楽主義といった分かりやすく誇張された逸脱に置き換えられていたこと――を連想させるイメージの修正である。
しかし日本画という、より保守的なメディアで示されたモガは、更に表現がつつましくなっており、このカタログ所収の作品でもファッションという点でモガの性的放縦さや享楽主義をあからさまに感じさせるのは、小早川清による《近代時世粧の内― ほろ酔ひ》(一九三〇年)(cat.no.2)など数点である。むしろ日本画で描かれた当時の近代的な女性の表象においては、表情や視線といった、もっと微妙な表現に現われる知性や意思の存在のようなものが印象的だ。表紙絵の中村大三郎《婦女》(一九三〇年)(cat.no.22)の余裕のある冷たい視線や、和田菁華の《T夫人》(一九三二年)(cat.no.14)の自信に満ちた微笑みは、意識的に昔風の牧歌的でうぶな田舎娘を描いた中島菜刀の《きのこ狩り》(一九一九~二三年頃)(cat.no.28)の人形のようなおっとりとした顔と比較すれば、周囲から自立した近代的な自我を感じさせる。また柿内青葉による《美人》(一九二五年)(cat.no.25)の女性像が見せる憂いは絵画的というよりは、文学や哲学に近いような雰囲気だし、同じ画家による《夏の夕べ》(一九三〇年代初頭)(cat.no.26)では、歌舞伎のモチーフの着物や行灯(ただし中は電気らしい)、団扇という小道具や、しなを作るように床の上で膝を崩してひねった姿勢など、より伝統的な情緒を濃く描いているにも関わらず、女の表情には見る者に媚を売るような気配はなく、ただ自分の内面に没頭している。「そこでは女性は単なる視覚的な快楽の対象ではなく、私的な想いを持つ当世の女として描かれ」 (9)ているのである。よってもしもこの展覧会がファッションといった表面的な「近代」の記号にのみ着目して分析を行っていたら、日本画に描き出された近代女性像は極めて限定的な領域にとどまるもの、という結論が出たかもしれない。その意味で、ブラウンが分析対象を幅広く、緩やかに規定したことは評価できよう。
もう一つの特徴は、この幅広い近代性の発見が、一見伝統的図像そのものという作品の分析にも生かされていることである。例えば伊藤小坡による《元禄美人》(一九二〇年頃)(cat.no.39)は、見返り美人風の姿勢をとった江戸時代の遊女を描いた小品であるが、前結びにした帯、兵庫髷、様式的で小づくりな顔立ち、とどれをとっても近代とは縁がなさそうな作品である。しかしブラウンによる解説はこの作品の緩やかで即興的な軽い描線や、シンプルでやわらかな色調に、大正期らしいさわやかで気の張らない「感覚」(10) を見出している。これらはブラウンの過去の新版画に関する著作において伝統的な女性像が近代的な技法と融合していく過程を分析した経験が生かされた解釈でもある。
また同じ過去の著作で示されたもう一つのアイデア――江戸(懐古)趣味が近代化の病弊からの逃避となっていたという指摘 (11)――は今回の展覧会でもっと本質的な問題として、そうした画題やジャンルそのものが、近代的変化の結果として生み出されたことを強調する形で繰り返されていることも興味深い。例えば、歌舞伎の一場面を描いた北野恒富《冥途の飛脚 梅川》(一九二三年)(cat.no.38)や、日本舞踊を舞う女性を描く山川秀峰《鷺娘》(一九二五年頃)(cat.no.37)などでは、このような画題で描くこと自体が当時の流行であったことを指摘しているが(12) 、もっと大きな流れとして、近代化が進んだ大正期に、それに反発するように歴史的、文学的テーマを扱うことで日本の伝統への再挑戦を試みる動きがあったことに着目している。「大正文化は、しばしば過去の損失とその取り返しに重きを置く」 (13)と語る本カタログは、いわゆる「伝統の創造」(ホブズボウム)論を援用することで(14) 、大正社会の近代を描き出していく。ここでは「近代」と「伝統」は相反するものではなく、裏表の関係で連動するものとしてとらえられている。この現象を捉えることによって、伝統への回帰が大正モダニズムの裏側に、モダニズムへの対応の重要な側面としてあったことを見逃していない。 
前時代からの劣化や逸脱ではない、当時の社会の空気を反映した独自の領域として近代の日本美術を捉えなおそうという試み――やや安易に言い換えれば、オリエンタリズムからの脱却――において、ジャンルを越えて同時代の作品を同じ基準で測るという視点は斬新で貴重だ。加えてブラウン自身が述べている通り(15) 、西洋における大正芸術の研究の多くがモガを代表とするような進歩的なスタイルを重視し、一方美人画に関する研究が逆にモダンな文化を無視して懐古趣味に陥っていたことを考えれば、「近代」と「伝統」の両方を関連づけて視野に入れるという作業は、両方の研究領域をつなげ、かつどちらも相対化する試みとして評価できよう。
もちろん、画家の属する流派、活躍した地域、制作年代もばらばら、中には制作者や、年代不明のものも複数含まれているという作品選定のあり方は、画家や流派の関係、画壇史の側面が多く取り上げられる日本の美術展の感覚とは距離感のあるものである。一点一点の作品解説には分かる限り制作者の来歴が一応語られているとは言え、作品の解釈とはあまり絡んでこない。ここで作品に要求されているのは、制作にまつわる具体的な背景よりは、そこに何がどういう風に描かれているかだからである。また分析概念として用いられているのは「近代」、「伝統」という漠然としたキーワードで、その意味するところはブラウンの解釈によっている。こうした点に関して批判は当然予想されるところであるが、その漠然とした網で対象を掬い取った結果、日本語版の冒頭に述べられている通り(16) 、大正期の社会と文化について、日本人にも一般には認識されていない側面が見えてきていることは確かであろう。
一方で「近代」という大雑把な時代概念で、大正から昭和戦前期を全てひっくるめてしまうことによって、時代描写が一面的になったという印象は拭えない。そしてこのことは、非歴史的な過去に日本美術を押しとどめようとしてきた一昔前のアメリカの日本美術史観への批判として「近代」を取り上げているにも関わらず、その「近代」像もまたある時期のイメージに留まったままの静的なものにしてしまう危険を生みかねないという問題があるように思う。
それはこの展覧会が女性のイメージを切り口として取り上げたことにも言える。すでに見てきたように、ブラウンによるカタログの論点は、この近代日本画における女性の表象が当時の女性の実態をそのまま映すのではなく、それをめぐる様々な政治力学の影響を受けて新たに生み出されるものであるというところにある。しかし、会場やカタログにあふれる色鮮やかで優美な日本画の美人を見ていると、それら女性のイメージが持つ圧倒的な存在感の前に、そうした政治学に対する分析はかすんでしまっているように思えた。そのイメージが実態と乖離していることを示すために、作品の回りの情報や、比較対象となる資料(洋画とか写真、イラスト、漫画など)――これは所蔵品を中心とした展覧会なので、無いものねだりかもしれないが――があると、よりテーマが見えやすくなったのではなかったかとも思う。
 最後にカタログ日本語版に関していくつか感想を述べておこう。シャロン・ミニチェロによる歴史的な背景説明は、このカタログの時代観の基になるものであるため、やはり日本語訳して冒頭に置く方が良かったと思われる。またブラウン論文の翻訳において、一部表現に疑問が残るものがあったこと(17) も些細なことだが、一応指摘しておく。また、これも無いものねだりであるが、このようなアメリカの日本美術研究のあり方に対して、日本側のコメントが具体的な形で追加されていたら、更に興味深く、かつ今後の日本での研究に資するものとなったのではないだろうかと夢想している。  
ともあれ、見た目の心地よさとその心地よさの裏側に焦点を当てた刺激的なカタログで楽しめる展覧会であったことは間違いなく、これをきっかけに、今回不明とされた画家の解明も含め、日本側でも研究がすすむことを期待したい。

(展覧会およびカタログデータ)
「大正シック展――ホノルル美術館所蔵品より――」 東京 東京都庭園美術館(二〇〇七年四月一四日~七月一日) 巡回展は、尼崎市、尼崎市総合文化センター(二〇〇七年七月二八日~八月二六日)、静岡市 静岡県立美術館(二〇〇七年九月八日~一〇月一四日)、尾道市、尾道市立美術館(二〇〇七年一〇月二〇日~一二月一六日)。カタログは本展のアメリカ版カタログ、Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002.の翻訳を中心に国際アート編集・発行、二〇〇七年、総頁数百八十。

*アメリカでの巡回データ(もし必要であれば)
Honolulu Academy of Arts, January 31 to March 15, 2002; The David and Alfred Smart Museum of Art, The University of Chicago, April 20 to June 22, 2004; The Marion Koolger McNay Art Museum, San Antonio, March 15 to June 4, 2005; Berkeley Art Museum and Pacific Film Archive, University of California, September 13, 2005 to January 8, 2006.

評者が訪れたのは、静岡県立美術館である。
本展カタログp.12
George R. Ellis, “Preface”, in Brown, Kendall H. Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco.(Honolulu: the Honolulu Academy of Arts), 2002. p.6
スティーブン・L・リトル「はじめに」、本展カタログp.8
日本展版のカタログは、基本的には二〇〇二年出版の英語版カタログをそのまま日本語訳したものとなっている。違いは、日本展には出品されなかった展示品の解説が削除されているのと、英語版で冒頭にあった歴史学者シャロン・ミニチェロによる大正の日本社会に関する説明が日本語訳されないまま最後に移動されていること、また序文が二〇〇二年当時の館長ジョージ・エリスから二〇〇七年現在の館長スティーブン・リトルのものに変わっていることなどである。
Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan. (Los Angeles: Los Angeles County Museum of Art), 1996. なおブラウンは同年にLight in the Darkness: Women and Japanese Prints of Early Shōwa.(Los Angeles: Fisher Gallefy)というやはり新版画の展覧会カタログを編集しているが、こちらの方は評者は未見である。
本展カタログp.32
Silverberg, Miriam, “The Modern Girl as Militant,” in Bernstein, Gail Lee, ed., Recreating Japanese Women, 1600-1945. (Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press),1991.pp.239-266. この文献はカタログの参考文献として記載されている。
本展カタログp.74
本展カタログp.104
Brown, Kendall. “Modernity and Memory: Shin-hanga and Taishō Culture.”, in Brown, Kendall H., and Hollis Goodall-Christante. Shin-hanga: New Prints in Modern Japan, p.36.
本展カタログp.102
本展カタログp.18
Vlastos, Stephen, ed., Mirror of Modernity: Invented Traditions of Modern Japan.(Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press), 1998.が参照されている。
本展カタログp.16



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