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ベルリンと東京―都市と文化の遠近法(88号掲載) 曽我 晶子

曽我 晶子
執筆時 : 東大比較文学会会員
雑誌情報 : 『比較文學研究』88号、2006年10月、166~170ページ


「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展と銘打った展覧会が開催されることを最初に知ったのは、たまたま出掛けた六本木ヒルズで広告チラシを発見した時だ。それは、バウハウス調の色合いとタイポグラフィーを模したような技法が盛りこまれた手の込んだグラフィックデザインで、一般的な展覧会チラシと比べて一際眼を惹くものだった。実際に手に取ってみてみると、随分ぺらぺらした、新聞紙のような灰色がかったA4サイズの紙に印刷されていた。裏側も同じようなデザインになっていて、タイトルと会期、場所以外の情報がほとんど見当たらず、当惑させられた。一見しただけでは、会場が「森美術館」となっていなければ、そもそも美術の展覧会を告知したものかどうかもわからない。ドイツ工作連盟の写真展のポスターや、岸田劉生の作品が素材に使われていたことと、戦前のドイツで人気を博していたグラフ紙を真似したような文字や写真の組み方から、二十世紀の日独間における文化的な交流や、東京とベルリンで花開いた都市文化の影響関係をテーマにしているらしいという推測はできた。
とはいえ、ここに素材として使われている作品を知らなければ、タイトルだけからでは、ほとんど何もわからないのではないだろうか。実はこのチラシが二つ折りになっていて、その内側に、最初に私がこのチラシをさんざんためつすがめつして探したもの、すなわち出品作品のカラー写真や、展覧会のテーマ構成などについての詳しい解説が印刷されていたことに気づいたのは、ずっと後になってから、展覧会を見てしまった後だった。
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展は、一八八〇年から現代までの一二五年間における、ベルリンと東京の文化的交流の歴史を、時系列的にたどるものだった。時代やテーマごとに十一の展示セクションから構成され、美術をはじめ建築や写真、工芸、演劇といったさまざまなジャンルを網羅した約五百点もの作品を集めた、きわめて意欲的な試みである。六月からは、内容を一部変更して、ベルリンの新国立美術館への巡回が予定されており、この二つの都市の文化交流の歴史が双方の立場から顧みられることになる。
この不可解なチラシにも関わらず、タイトルに「ベルリン」とあるだけで、筆者は過大な期待を抱いていた。十九世紀から二十世紀の転換期からナチスが台頭するまで、映画や新聞といったメディアの発信地であり、アヴァンギャルド運動の代表的な実験場でもあったベルリン。第二次大戦後は、東西区域に分断されるという数奇な運命にさらされたベルリン。また壁崩壊後は、旧東ベルリン地区に国内外から多くの若いアーティストが集まり、パリともニューヨークとも違う、独特のアート・シーンを作り出したベルリン。複雑な歴史を背負ったこの都市の文化が、東京との関わり合いのなかでどのように描き出されるのかと、興味津々であった。
これだけの長い期間を対象としているものの、同展のハイライトは、やはり二十世紀のはじめから一九三〇年代前半にナチスが台頭するまでにおける、いわゆる「アヴァンギャルド」の時代だ。特に絵画の領域では、両国における伝統的な美術を脱却しようとする試みにおいて、それぞれがダイナミックに、互いに影響を与え合ったということが、この時代の造形作品のなかにはっきりと見て取ることができる。それは単に、着物を着た日本女性や和傘など異国趣味を喚起する日本のモチーフが、当時の絵画作品に取り入れられているというだけではない。ベルリンの美術学校で教鞭を取っていたエーミール・オルリクが、日本に長期滞在して木版画の技法を習得し、帰国後に弟子にその技法を伝授した。また、表現主義のグループ「ブリュッケ」や「青騎士」の画家たちが、従来のヨーロッパの表現様式を否定するなかで、日本の木版画に注目、その「原始的な」表現がより「本質」を表すものであると考え、自らの作品にその技法を取り入れていった。こうした芸術のアヴァンギャルド運動を牽引していたヘルヴァルト・ヴァルデンが、作品発表の場として一九一二年に開いたのがベルリンの画廊「シュトゥルム」である。
「シュトゥルム」で発表された表現主義の木版画作品が、一九一四年に、ドイツに留学していた山田耕筰らの尽力によって東京でも紹介されたことは、ドイツでも日本でもあまり知られていない。「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展の二番目のセクションでは、このとき日比谷画廊で開かれた「シュトゥルム木版画展」を再現し、そこから「逆輸入」式に影響を受けた恩地孝四郎や、渡仏前の長谷川潔の木版画をともに展示しており、そこにインスピレーションの交換があったことを明確に見て取ることができる。
船や鉄道しか交通手段がなかったこの時代、ベルリンと東京の距離は、今よりはるかに遠かったに違い。移動に何ヶ月もかかるほど遠く離れた土地でありながら、両都市が、相互に豊かな交流関係を築いていたという事実と、革新のために異文化を積極的に取り入れようとした芸術家の熱意には、素直に驚かされる。ベルリン側からみても、キルヒナーやペヒシュタイン、マルクといった馴染み深い作家の作品が、遠い極東の国、日本のアーティストに、同時代に影響を及ぼしていたということは、新鮮な発見となるのではないか。その他にも、ダダの作品と村山知義のマヴォや、ジョージ・グロスの強烈な社会風刺画と柳瀬正夢の共産主義的なポスターなど、様式の類似が視覚的にはっきりと認識できるものが一緒に展示されている。ドイツでおなじみの作品と、よく似た作品が日本でほぼ同時代に生まれていたということが、とてもわかりやすい構成になっているので、この展覧会が、巡回先のベルリンでどのような反響を呼ぶのか、きわめて興味深い。
もうひとつ、ドイツから日本に巡回してきた戦前の重要な展覧会「独逸国際移動写真展」(一九三一年)を扱ったセクションもまた、同展の大きな見どころであった。二十世紀に入ってから、写真や映画という映像メディアが新しい表現手段として急速に普及したが、一九二〇年代になると、そのさらなる可能性を追求しようとする動きが出てきた。この傾向は、そのリーダー的な存在であったラースロー・モホイ=ナジの言葉を借りて「ニュー・ヴィジョン(Das neue Sehen)」と呼ばれるが、その集大成とも言えるのが、ドイツ工作連盟が主催した展覧会「映画と写真」("FIFO")である。ここには、都市や工場などのドキュメントとしてのルポルタージュ写真や、学術研究のための写真、マン=レイらによる実験的な作品、ジョン・ハートフィールドなどのフォト・モンタージュまで、約千二百点が、一堂に会した。あらゆるジャンルの写真を見せることで、芸術、報道、広告など、写真がさまざまな領域で応用可能であることを示したのである。
FIFOは、一九二九年のシュツットガルトを皮切りに、ヨーロッパ各地を巡回した。岡田桑三はベルリンでこれを見て、村山知義とともに日本への招致を実現し、「独逸国際移動写真展」として、東京および大阪で約千点にのぼる作品が展示された。今回の展覧会では、当時の展覧会に出品された写真と、同時代の日本の作家、特に雑誌『光画』で活躍した中山岩太らの作品とを並置することで、FIFOが日本にもたらしたインパクトを伝えている。
ここで残念なのは、今回の展示では、「ニュー・ヴィジョン」の写真の芸術作品としての側面しか紹介されず、報道写真としての側面にはほとんど光が当たっていなかったことである。対象をカメラという冷徹な眼で即物的に捉えようとした「ニュー・ヴィジョン」の写真は、写真展や写真集で発表されただけではなく、グラフ紙などに掲載されて、一般大衆に何かを伝える報道という役割をも担っていたところに、その最大の特徴のひとつがある。当時日本では「ドイツ新興写真」と呼ばれたこれらの写真は、芸術と記録という本来は相容れがたい二つの要素を同時に持ち合わせることになった。木村伊兵衛など、後にルポルタージュ写真家として活躍する写真家の多くは「独逸国際移動写真展」を見ており、「ニュー・ヴィジョン」の写真の報道的性質が、日本の写真のみならず、写真を使った報道にもたらした影響は無視できない。
都市文化をテーマに掲げていながら、同展が、映画と並んで大衆の支持を得ていたグラフ紙というメディアをほとんど扱っていなかったのは惜しまれる。グラフ紙は、ベルリンのウルシュタイン社が発行していた『ベルリン画報』(“Berliner Illustrirte Zeitung”)に代表される、タブロイド判サイズの週刊新聞で、一九二〇年代から、多数の写真が掲載されるようになっていた。最有力の十五紙の部数を合計すると、一九三〇年には五百三十万部も発行され、テレビのない時代においては、大衆の貴重な情報源であった。この時代のグラフ紙の市場における大成功はドイツ特有の現象であるが、これらのグラフ紙は国際的に影響を及ぼし、ジャーナリズム史に大きな足跡を残したため、近代フォト・ジャーナリズムの起源とされている。同展が写真を大きく取り上げながら、報道としての写真への視点が欠けていたのは惜しい。
日本で「独逸国際移動写真展」が開かれた一九三一年は、ミュンヘン在住の名取洋之助の撮影した写真が、初めてグラフ紙に掲載された年でもあった。翌年、ウルシュタイン社の特派員となった名取は拠点をベルリンに移し、報道写真家としての活躍を本格的に開始する。日本の家屋や生活習慣などが、名取の撮影した写真とともに、ドイツ各地のグラフ紙で紹介された。一九三四年に帰国した名取は、日本工房を設立、カメラマンやデザイナーを育て、日本のフォト・ジャーナリズムとグラフィックデザインの発展に大きく寄与した。同展では、日本工房の海外向け宣伝雑誌『NIPPON』と、名取が撮影したベルリンオリンピックの写真が、ファシズムと戦争の時代を扱ったセクションで、戦争プロパガンダの例として紹介されてはいた。しかし、名取がドイツと日本を実際に行ったり来たりしながら、日本にドイツ流ジャーナリズムの最新ノウハウを伝えてその後の日本のジャーナリズムに貢献したことや、逆にドイツでは写真を使って日本の生活や文化を紹介したことを考えると、それではとても充分とはいえない。ベルリンの観客にも話題を提供しそうなテーマにもかかわらず、同展で取り上げられなかったのは残念である。
戦後の時代に関しては、戦前と比べるとぐっと展示のヴォリュームが少なくなり、一九四五年から五〇年代まで、六〇年代、壁崩壊後に、それぞれ一セクションずつが割り当てられていた。この辺りになると、ドイツと日本の文化交流は、特定のイベントや様式の変遷をたどるだけで再構成できるような単純なものではない。相互の影響関係も、戦前とは違い、作品の表面的な現象から見出せるようなものではなくなってしまっている。東京とベルリンという二都市や、その「文化交流」という切り口が、すでにここでは無効になってしまっているように思われた。その理由として、いずれにとっても、アメリカが政治的にも文化的にも絶対的に大きな存在であったことや、ドイツが東西に分裂してしまったことはもちろんあるだろう。さらに、技術の発達によって、交通手段も通信手段も大きく変化を遂げ、人や物の移動が比較にならないほど多くなって、「文化交流」と一言でいっても、ひとつひとつたどっていけるようなわかりやすい現象として現れるものではなくなってしまったこともあるだろう。
壁崩壊後を扱った「ベルリンの今」と題された最後のセクションで、現代のベルリンのアーティストたちの作品を見ながら、それぞれに興味をそそられながらも、なぜこれらの作品が選ばれてここにあるのか、という疑問への回答を見出すことはできなかった。ビデオインスタレーションや壁画、写真など、作品のヴァリエーションは取り揃えられていたが、これらが「ベルリンの今」を知るよすがとなるとは思えなかった。
実は、現代を扱ったこの最後のセクションでは、東京とベルリンで、展示内容がそっくり異なるという。カタログによれば、ベルリン展では「日本の漫画、ニューメディア、そして現代アートを取り巻く都市環境を取り上げ、東京のコンテンポラリーなアート・シーンをより重点的に紹介する」らしい。いったいどのように「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」が紹介されるのか、非常に気になるところである。せめてカタログ上だけでも、東京展とベルリン展の双方の内容を収録してあれば、それぞれがどのように見られているかを互いに垣間見ることができ、交流の新たな次元を切り拓くきっかけとなったのではないか。
そして、ぜひカタログはドイツ語と日本語のバイリンガルであって欲しかった。さらに欲を言えば、ベルリンと東京で販売されるカタログがまったく同一のものであれば、この展覧会はもっとパラレルでおもしろいものになるのではなかろうか。
展覧会を鑑賞したあと、超高層タワー五十二階の展望台からスモッグに霞んだ東京の街を眺めながら、ベルリンで見た、古くてくすんだ感じのカフェでの朗読会や、アーティストの卵が集まる旧東ベルリン地区のアパートのキッチュな中庭などのことを思い出した。これらは、少なくとも訪問者の眼には、アーティストや作家たちがカフェにたむろして日がな芸術談義に打ち興じていたという、戦前の伝説的なベルリンと、あまり違和感なくつながっているように見えたものだ。しばらくして、ベルリン展の最後のセクションの内容がとても気になるのは、東京にいながらにして「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」なるものが、まったくイメージできないからだということに思い至った。東京にいて「ベルリン」というキーワードに反応してしまうのは、ごく身近にアート・シーンらしきものが体験できた街へのノスタルジーのためかもしれない。グローバルな現代社会にあって、ベルリンと東京は、百年前よりもずっと遠くなっているような気がしてならなかった。そして、同展のチラシをはじめて見たときと同様の不可解な印象が、強く残った。

[展覧会およびカタログ・データ]
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展
六本木ヒルズ森タワー53階・森美術館(二〇〇六年一月二十八日~二〇〇六年五月七日)、ベルリン新国立美術館(二〇〇六年六月八日~十月三日)。カタログは森美術館編輯・発行、二〇〇六年、総頁数三百八十八。