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2007年1月 アーカイブ

2007年1月12日

[寸評]「揺らぐ近代――日本画と洋画のはざまに」展

・会期:2006年11月7日~12月24日
・会場:東京国立近代美術館
・評者:永井 久美子

まず、展示作品の質がとても高いことが注目されます。近代絵画の歴史を考えるうえで頻繁に言及されてきた作品と、「日本画」「洋画」というジャンル分けに適さないがゆえに議論から外されがちであったと思われる作品の両方が、一堂に会していました。

注目は、やはりボストン美術館の小林永濯作品であると思われます。他にも《加藤清正武将図》など、国内の小林作品も出品され、小林永濯再考のよい機会ではなかったかと思います。

全体の展示の流れも、これまでの日本近代美術の議論をふまえた構成となっており、分かりやすいものであったと思われます。本展の位置づけを確認するためにも、カタログに参考文献一覧が
付されていれば、より明解であったのではないかと感じました。

カタログでは、作品自体の解説や文献の紹介よりも、作者の人物紹介に重点が置かれている印象がありましたが、本展は、人物研究という意味でも
作品の選び方が大変興味深いものであったと思われます。例えば横山大観の《迷児》や浅井忠の《鬼ケ島》など、一般的に「日本画家」と考えられている人の「洋画」、「洋画家」と考えられがちな人の「日本画」が並び、作者も簡単にジャンル分けできるものではないことが、会場でも一目で分かるように示されていたと思います。

なお、今回のカタログおよび会場のパネルのテキストを通して、本展で取り上げられた作品をどう語るか、そのことばの問題の難しさを感じました。例えば、狩野芳崖の作品を語るにあたり、伝統的な「日本画」にはなかった顔料が云々と論じると、芳崖の時代にすでに「日本画」というジャンルが確立していたかのように解されてしまうが、ではどのように語ればよいのか。また、「日本的な油絵」「日本的な洋画」といったとき、「日本的」というものは具体的にはどのようなものを前提に考えるべきなのか。

これらのことばの難しさは、単なる語彙の問題ではなく、ジャンル分けしにくいものの扱いにくさ、その扱いにくいもの、すなわちジャンル分けされた結果、見落とされがちであったものをどう語るのかという困難さを示していると思われます。本展は、ジャンル分けがもたらした問題を、具体例をもとに浮き彫りにした機会でもあったと思われます。

2007年1月13日

[寸評]「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」展

・会期:2006年10月14日~2007年1月8日
・会場:森美術館
・評者:中井 真木

http://www.mori.art.museum/contents/billviola/index.html

展覧会・カタログ評院生委員会・有志見学会の第二弾として、12月8日に訪れました。
参加者は、案を出してくださった小泉さん、手島さん、中井の3名と少なめでしたが、楽しく有意義な見学会になりました。


私個人としては、ヴィデオ・アートの個展自体がとても新鮮な経験でした。

作品の中で特に刺激を受けたのは、西洋絵画の伝統を直接踏まえた、「ドロローサ」や「グリーティング」などの作品です。これらの作品は画面も絵画のように額装され、絵画の展覧会のように展示されているのですが、画面の中の人物は超スロー再生によってゆっくりと動いています。特に「ドロローサ」や「アニマ」などの作品は、無音なので、いっそう絵画的です。瞬間を切り取る芸術である絵画に時間が持ち込まれることで生じる不思議な矛盾に強く引き込まれました。


全体として、作品のアイディアも多様で最後まで楽しめましたが、ヴィデオ・サウンド・インスタレーションと、美術館での展覧会との相性については考えさせられました。

一つは、多くの作品が最初から最後まで鑑賞するには長い時間を要するため、とてもすべては見切れないということがあります。その結果、ある作品の前に立ったときに、その作品のどの部分を見るのかは、偶然に支配され、一般の展覧会よりはるかに明示的に、鑑賞行為が鑑賞内容を規定してしまいます。

また隣の作品の音や光が漏れてくる中で鑑賞を強いられることで、作品にあまり集中できない場面があったことは、私としては残念に感じました。


もう一つ残念だったのは、展覧会のタイトルになっている「はつゆめ」という作品は、3回の特別上映のみで、それ以外に「はつゆめ」を感じさせる場面が会場にはなかったことでした。


なお、カタログは、英語版・日本語版が売られ、日本語版はISBNのついた図書の形態で淡交社から出版されています。

2007年1月17日

[寸評]「イギリスの美しい本」展

・会期:2006年 7月22日(土)― 8月27日
・会場:千葉市美術館
・評者:安藤 智子

 私たちが愛してやまない「本」という「物」を芸術作品のように鑑賞し評価するという主旨は意欲的であり、興味を惹かれる企図でありました。本の出版は、文学というテクスト、紙と活字の印刷技術、挿絵と本の装丁という美術のコラボレーションであり、まさに領域を横断する対象として研究の目が向けられるべきであると思われます。

19世紀後半から20世紀にかけてのイギリスにおいて、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動や中世趣味への回帰、ジャポニスムなど様々な事柄が錯綜していた状況下で出版されていた「私家版」と呼ばれる美しい本がこの展覧会の主役であります。このような芸術的動向のなかで活躍した芸術家たち、つまりロセッティ、バーン=ジョーンズ、モリスたちは、「私家版」の本の出版に深く関わっており、展覧会では、彼らの挿絵を実際に見ることができ、改めて感銘を受けました。

「本」を展示することはそもそも困難な作業のようで、暗い照明のもと、ケースに入れられた「本」の見開き1ページ(計2ページ)しか見ることができません。一部鏡を使って、本の表紙と中身が一度に見られる展示もありましたが、ほとんどの開かれた書物は、中の2ページだけが鑑賞可能で、外の装丁は鑑賞不可能なのです。つまり、本の中と外、テクストと装丁といったコラボレーションの妙味を鑑賞することはできませんでした。

例えば、バーン=ジョーンズが挿絵を担当し、モリスが装丁を施した『チョーサー著作集』は、バーン=ジョーンズ本人によって、「ゴシックの大聖堂」にも匹敵する芸術の集大成であると評された作品ですが、その作品たるべき本は装丁を見せるために閉じられており、中のテクストも挿絵も見られないままでした。古い本を開いて展示することによる、本への物理的な負担が考慮されているとも考えられますが、私個人としては、図版からのコピーでも、中のテクストや挿絵を並置して見せて欲しいと感じました。

小規模な展覧会ではありましたが、小規模だからこそ、親密に鑑賞者へ訴えかける何かひと工夫が必要ではないでしょうか。まして、多くの鑑賞者にとって、これらイギリスの画家たちは馴染みがないのですから、パネル展示で予備知識を与えるだけでは十分とは思えません。カタログも簡潔な内容となっており、「作品」としての「本」が持つ紙やインクの質感が表現されていないのは残念です。

しかしながら、上述したように、イギリスの「私家版」は、これからさらに研究が進められる可能性を秘めており、そしてこの展覧会は、問題含みではありますが、「私家版」を知らしめる契機となるであろう、意義のある試みであったと思います。

2007年1月25日

「アジアのキュビズム:境界なき対話」展(87号掲載) 前島 志保

前島 志保
執筆時 : 日本学術振興会特別研究員
雑誌情報 : 『比較文學研究』87号、2006年5月、151~156ページ


「えーっ。これがキュビスム?」
 入り口近くのブラックとピカソの小品が掲げられた小部屋をぬけて進んでいくと、そんなささやき声があちこちから聞こえてくる。確かに、全体的に色彩を抑える傾向のある西洋のキュビスム作品に比べて、東南アジア、南アジアの画家たちのキュビスム作品の明るく透明感のある色使いは新鮮だ。多視点性が用いられていない半透明のグリッド構造によるヴェールを掛けたような画面からは、しっとりと湿った空気感が伝わってくるように感じられる。展示作の隣に添えられた解説によれば、こうした手法を「透明キュビスム」という独特の様式に発展させたのはフィリピンの画家ヴィンセンテ・マナンサラ(Vincente Manansala)だが、面白いことに、韓国の金洙(キム・ス)、中国の林風眠(リン・フォンミェン)らアジアの画家たちの間に広く見られる傾向であるそうだ。
都市の雑踏、路地の物乞い、機械化/工業化、戦争をモチーフにしたアジアのキュビスム作品と対していると、対象を一端突き放して分析・分解し再構成するキュビスムの手法が、戦争・近代化など社会の急激な変化を一歩引いた目線で冷徹に見つめなおす際に有効であるということに、改めて気づかされる。逆に言えば、アジア地域では、それだけ、一度立ち止まって客体化し、乗り越えていかざるをえないような急激な変化が多かったということだろう。この点で、韓国ではあまり根付かなかったというキュビスムの手法が、朝鮮戦争をモチーフにした作品には多用されているのは非常に示唆的だ。
西洋で取り上げられたテーマ以外にも、音楽、自画像、農村も主題となったこと、未来派的要素と混交され具象性が保持された結果、西洋とは違って宗教的/神話的な物語性のある主題もキュビスム的手法で表現されていること、1930年代中国の木刻運動における革命思想とモダニズム芸術運動の融合、バティックの伝統的な柄とキュビスム的な画面構成との創造的な出会い、アジアの近代芸術の展開における国際都市上海と各地の近代美術学校および美術教師たちの果たした役割の重要性とそれらの間の相互的な関係性など、興味深い発見が続く。
1950年代に宗主国から独立して国家を形成したアジア各地で「国民的絵画」の創造が目指された際には、土着の伝統とは切り離された「近代画法」の典型としてキュビスム様式が多く採用されたという事実も、本展で初めて知った。新しく成立した国家シンガポールの中華系の四人の画家がナショナルな「ふるさと」イメージの源泉を求めてバリに旅し描いたと解説された画を見ながら、彼らが「南洋」の先住人たちとその文化をどう見ていたのだろうかと思いを馳せる。この点は、今回、展示されていたチョン・ソーピン(鐘泗賓)の「小川」(1953年)(cat.no.7-08)だけからではよく分からないが、ラワンチャイクン寿子によれば、これら中華系の画家たちの作品を総体として見ると、彼らが「南洋」の人々に好奇の眼を向けつつも、同時に、「同胞」としても見つめていることが認められる、と言う(注1)。
また、明るい色調が印象的なマナンサラの「フアン・ルナの「血の同盟」」(1962年)(cat.no.4-24)は、キュビスム的手法が歴史的記憶の語りなおしに有効に用いられうることを示している。フィリピンの植民地化の発端となったスペインの征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピと土地の首長シカツナとの間の「血の同盟」締結場面をシカツナの視線から描いたフアン・ルナ(Juan Luna)の荘重な原画(1885年)に対して、マナンサラがキュビスム手法で描きなおした作品は平面的で明るく、鑑賞者の視線は画中のどの人物の視線とも重ならない。このため、鑑賞者は、フィリピン史上の一大転換点を華やかで客観的な画として、スペイン(征服者)側ともフィリピン先住人(被征服者)側とも異なる第三者的な立場から見つめることになる。
閉館十分前のアナウンスを聞き、最後に急いで会場中央に位置している小空間に入っていく。絵画が全く飾られていない、美術展としては異色のこの空間は、関連年表と画家たちの活躍地を示す世界地図、画家たちが残した言葉の断片の数々が散りばめられた三方の白壁に囲まれており、そこに立つ者の通時的・共時的な想像力を刺激し、70年に及ぶアジアのキュビスムの流れの中のそれぞれの時点と地域において芸術家たちがキュビスムとどのように関わりあいながら創作活動をしてきたのかを感じ取らせる仕組みになっている。本展で扱われている問題事項の多さ、そして、それを十分に理解し咀嚼するだけの情報(知識)量の少なさと強靭な知力の欠如にめまいを覚えながら帰途につく。
帰宅後カタログを読みながら考えた。「アジアのキュビスム」をどう考えたらよいだろう?
 カタログの諸解説を一読すれば、アジアでキュビスム的作品が製作されていた当時、当の作家たちが西洋の近代画法であるキュビスムの受容と土着化にいかに腐心していたかを垣間見ることができる。このような情況を踏まえてアジアのキュビスム作品の数々を積極的に評価する一つの方法としては、葛藤の過程を詳細かつ具体的に分析して、アジアの画家たちが西洋のキュビスム作品から何を主体的に取り込み、うち捨てて、独自のキュビスム作品を作り上げていったか、そして、それがその地における芸術のその後の展開の中でどのような役割を果たしたのかを考察するというアプローチがある。言語的記号、非言語的記号の双方を含めた<記号>の翻訳の問題としてこれを考えた場合、翻訳における「受け入れ側」(翻訳作品)の価値と意義を積極的に考えるということだ。本展の展示およびカタログの冒頭に掲げられているあいさつ文の「アジアの芸術家がキュビスム的動向をいかに受け入れ、いかにそれに応えてきたかという問題に焦点を当てる」という一節は、「受け入れ側」であるアジアの芸術家たちの自主性を重視する企画者側の宣言と読める。
ただし、この場合、受け入れ側の積極性、自発性を考慮に入れているとは言え、或る芸術潮流の翻訳を「発信する側(A)」から「受け入れ側(B)」への「受容」(A→B)として理解していることになる。つまり、分析・考察されるのは専ら「受け入れ側(B)」、あるいは「発信する側(A)」から「受け入れ側(B)」への変容であって、「発信する側(A)」自体が積極的に問い返されるわけではない。換言すると、分析の眼差しは主に「受け入れ側(B)」に注がれており、「受け入れ側(B)」に対する「発信する側(A)」の「原作」としての価値-「正統性」としての価値-と優位性は、さほど減じていない。
 「翻訳」を「受容」や「伝播」の物語から解放するには、どうしたらよいだろうか? 
ここで参考になるのが、ヴァルター・ベンヤミンの翻訳論である。ベンヤミンは原作と翻訳の地位の差を否定し、翻訳という行為を、ある言語から別の言語への移し変えではなく、不完全な言語をより完全な言語(「純粋言語」)へと補完するような作業として捉えることを主張した(注2)。これを記号間の「翻訳」一般に応用してみるならば、「原作」もその翻訳作品同様、「完全な言語」を目指したヴァリアントということになる。このような翻訳観に立てば、アジアのキュビスムも西洋のキュビスムもともに<キュビスム>という未だ完成されていない表現法の可能性を各々独自のやり方で引き出したものだと考えることができる(注3)。ちょうど、古句の読み直しを通して大須賀乙字が「二句一章」論を唱え評論と実作を行い、ほぼ同時期に、古句の翻訳に接したエズラ・パウンドが「重置法」を唱道しイマジズム運動を展開していったように、アジアの画家たちは、西洋のキュビスム作品に触れることで、独特なグリッドの用い方や新たなモチーフをキュビスム的手法で表現する道を拓いたのだ。
もちろん、そうは言っても、作品の制作当時、多くの芸術家たちがキュビスムおよび近代画法における西洋の優位性、正統性を感じていたことは否定できない。また、実際の分析作業としては、西洋のキュビスム作品とアジア各地のそれとを比較して、両者およびアジア内での差異を考察するということになるだろう。しかし、その際にも、上記のような「翻訳」認識に立てば、その比較は、「西洋のキュビスムからアジアのキュビスムに何が『正しく』移植されたのか」という問題意識に立たないばかりか、「前者から後者に何が『受容』されたのか/されなかったのか」という問題設定をも超えて、「両者の共通点・相違点は何か」という問いの立て方に基づいたものになるだろう。そして、もちろん、その過程では、従来のキュビスム認識そのものも問い直されることになるだろう。世界の近代芸術の展開過程における西洋と非西洋の非対称的な関係性を踏まえた上で、なおかつ、アジアのキュビスムを西洋のキュビスムとともに<キュビスム>の可能性を探究した試みとして捉え考察することは、想像するだけでも非常に魅力的な取り組みである。本展のカタログにも、このようなベンヤミン的な翻訳理解に通じるキュビスム観に立った解説が少なくない(注4)。
しかしながら、こうした翻訳観/キュビスム観が実際に展示を見た観客に伝わっていたかは、やや疑問である。というのも、展示に添えられた解説文は個々の作品あるいは類似テーマを扱った作品群の製作時の簡単な社会背景と鑑賞上留意すべき表現上の特徴に関する手がかりは与えてくれているが、我々はアジアのキュビスム作品をどういうものと考えて接していったらよいのかという根本的な議論は全く提示されていないのだ。それどころか、展示とカタログの図版部分に添えられた解説文は、しばしば、西洋のキュビスムを「時代性、地域性を超越した普遍的な様式」と要約するのに対して、アジアのキュビスムについては「西洋の普遍的キュビスム様式」の「土着化」や「伝統の取り込み」を、その様子を具体的に例示・分析しないままに強調し、結果的に「西洋=普遍」「アジア=土着(特殊)」という二項対立的図式を再生産してしまっているように見受けられた。アジアのキュビスムとアンドレ・ロート、フェルナン・レジェらのサロン・キュビスム、およびドイツとロシアのモダニズム芸術運動との関わりの深さを再三指摘している割には、ピカソとブラックの作品数点に「西洋のキュビスム」を代表させていることも、アジアのキュビスムを、ピカソらの「正統」キュビスムに対する「亜流」として見せてしまっていた。西洋を基準として語られがちな非西洋圏の近代文化を紹介する時は(そしてそのような認識の枠組みに異議申し立てをしたいという意図のもとに企画された催しであるならばなおさら)、そこで紹介される非西洋の近代文化の意義付けを企画者側がより明確に打ち出すべきではないだろうか。
この「アジアのキュビスム」展は、東京国立近代美術館初のアジア近代芸術展である。日本におけるアジアの近代芸術を扱った展覧会は福岡市美術館(現福岡アジア美術館)において一九七九年に始められて以来、近年、各地の美術館でも行われるようになったが、本展では、国際交流基金の他にも韓国国立現代美術館とシンガポール美術館が共同プロジェクトの立案者に加わっているのが、注目される。東京展の後は、ソウルとシンガポールでも順次、同展が開催されるそうである。管見によれば、これまで日本国内で催されてきたアジア近代芸術関係の企画展は国内のみの巡回が多かった(注5)。今回は、アジアの中でも経済力の強い三カ国に限られているとは言え、このような大プロジェクトを共同で企画・合同調査し相互巡回することが実現されたことに、将来のアジア圏内の近代美術展覧会における相互的な関わりあい方の方向性を見る思いがする。近年刊行されたキュビスムに関する包括的な書物『キュビスム』(注6)をみても、キュビスムの国際的展開として取り上げられているのは東欧、ロシア、アメリカのケースだけで、その他の地域におけるキュビスムの展開については言及されていない。恐らく、世界的に見ても、アジアのキュビスム的動向を扱った初の画期的な試みなのではないか。「テーブルの上の実験」「キュビスムと近代」「身体」「キュビスムと国土(ネイション)」の四つの大きなテーマ別に作品を提示するという展示方法も、国境や時代を超えた視点からアジアのキュビスム作品を見てもらいたいという企画者側の意欲に満ちた仕掛けと見てよいだろう。
カタログの方も、展示同様、意欲的かつ冒険的な試みに満ちている。本書は三つのパートに分けられており、Part1には、展示会場では空間的にも仕切られていた上記四つのテーマが四つの章となっており、それぞれの章に大小さまざまな解説文が収められている。続くPart2は、各国の専門家九名が寄せた「キュビスム受容史」、最後のPart3「資料編」では、作家の略歴、用語解説、地域ごとに整理された参考文献、出品リストまでが掲載されているという充実ぶり。論者たちの間でアジアのキュビスムに関する見解がまちまちであったり、文献の選択基準が地域ごとの専門家たちの間で一定していないのが気になるが、それもこの広範囲の地域における美術言説と研究方法の多様性を垣間見るようで、面白い。展示作品の図版は小さいものの、全てカラーで紹介されてある。本書は、今後、このテーマに興味を持つ者にとって、恰好の入門書になるのではないだろうか。
ただし、読みやすい本とは言い難い。例えば、各章冒頭の包括的な解説とそれに対応する図版が非常に離れた箇所に収められているうえに、図版の掲載頁数が必ずしも常に解説文中で示されているわけではないので、図版を参照しながら解説を読んでいくことが困難なのだ。せめて、引用されている図版のカタログナンバーだけでなく掲載頁数も解説文中に書いて欲しかった。また、西洋のキュビスム手法と土着の伝統の融合についてしばしば言及されているが、多くの場合(例外もあるが)、具体的にどのような「伝統(的文様、絵画、物語)」とどのように「融合」しているのかが示されていないのが、もどかしい。たとえば、ジョージ・キート(George Keyt)(スリランカ)らが装飾性に富む様式美を創出するにあたって「対話・融合」したという「地域の美術的伝統」(カタログ37頁)とは、どのようなものだったのだろうか。
本カタログの意欲的な点でもありまた問題点でもある点は、何と言っても、あまりにも多様な解説文がそれぞれの役割と関係性が不明瞭なまま収められているということだろう。各章が「解説」「テーマ」「セクション」「コラム」と分類された論説文群から成るPart1の構造は特に複雑で、読んでいて混乱する。各カテゴリーの役割を明確にして企画・編集し、それぞれがどのような目的で書かれ構成されているのかがカタログ冒頭で整理して示してあれば、多種多様な論説文の多声性を損うことなく、立体的で読みやすく、かつ、参照に適した一冊の書物になるのではないだろうか。
以上、述べてきたように、本展およびカタログには問題点はあれ、それは、裏を返せば、取り組むべき課題が多い肥沃な領域であるということである。現時点では、少なくとも、見る者の従来的なキュビスム観にざらりとした違和感を波立たせただけでも、意義深い企画であったと言えるだろう。本展とカタログが、アジアの近代美術を、西洋の近代美術同様、近代美術のヴァリアントとしてとらえ、西洋との関係だけでなく、アジア内の関係性も踏まえた風通しの良い空間の中で考察していく試みへと開かれた窓の一つであることは間違いない。今後の非西洋圏の近代美術を射程に入れた近代美術全般の見直しの動向に注目していきたい。


1 ラワンチャイクン寿子 「南洋1950-65 ―シンガポール美術への道― 」福岡アジア美術館、ラワンチャイクン寿子編『南洋1950一65 ―シンガポール美術への道―』近代美術シリーズⅡ、福岡アジア美術館 2002年。
2 ヴァルター・ベンヤミン(浅井健二郎訳編) 「翻訳者の使命」 『ベンヤミン・コレクション2』 ちくま学芸文庫 1996年、396-398頁。
3 ちなみに、「近代(性)」についても同じような解釈が可能である。「近代(性)」は、その発祥の地西欧においても従来とは異質で破壊的な新しい現象として経験された。Marshall Berman. All That is Solid Melts into Air: The Experience of Modernity. New Edition with a new preface. NY: Penguin Books, 1988 (original edition published in 1982).
4 例えば、キュビスムを「ヨーロッパ的でも非ヨーロッパ的でもない第三の何か」(72頁)と捉える松本透の「キュビスムにおける身体」。今回の企画を、従来の美術史の言説によって固定化された「キュビスム的なもの」そのものの問い直す試み(20頁)と見る林道郎の「オン・ザ・テーブル」。キュビスム定義の曖昧さを指摘しつつ、まさにベンヤミンの翻訳論を援用しながら、アジアにおけるキュビスムを「「類似性とは別のかたち」で生産的な変容を遂げたキュビスム」(15頁)と評価する建畠哲の「アジアのキュビスム」。
5 福岡の第二回、第三回のアジア美術展の韓国巡回は数少ない例外である(「関連文献」参照)。
6 ニール・コックス(田中正之訳) 『キュビズム』(岩波世界の美術) 岩波書店 2003年 (原本:Cox, Neil. Cubism. London: Phaidon, 2000.)

<関連文献>(注で引用した文献を除く) 
・後小路雅弘 監修 『モンゴル近代絵画展』 産経新聞社 2002年
・岸清香 「美術館が「アジア」と出会うとき-福岡アジア美術館の設立と展開-」 平野健一郎監修 『戦後日本の国際文化交流』所収 勁草書房 2005年
・静岡県立美術館 編 『東アジア/絵画の近代-油絵の誕生とその展開』 静岡県立美術館 1999年

[展覧会およびカタログ・データ]
「アジアのキュビスム ― 境界なき対話」展
東京国立近代美術館(2005年8月9日~10月2日)、徳壽宮美術館(韓国国立現代美術館文館、11月11日~2006年1月30日)、シンガポール美術館(2月18日~4月9日)。企画・運営は東京国立近代美術館・韓国国立現代美術館・シンガポール美術館・国際交流基金。カタログは、東京国立近代美術館(三輪健仁、鈴木勝雄、松本透)・国際交流基金(古市保子)編輯、東京国立近代美術館・国際交流基金発行、 2005年、総頁数212。

ベルリンと東京―都市と文化の遠近法(88号掲載) 曽我 晶子

曽我 晶子
執筆時 : 東大比較文学会会員
雑誌情報 : 『比較文學研究』88号、2006年10月、166~170ページ


「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展と銘打った展覧会が開催されることを最初に知ったのは、たまたま出掛けた六本木ヒルズで広告チラシを発見した時だ。それは、バウハウス調の色合いとタイポグラフィーを模したような技法が盛りこまれた手の込んだグラフィックデザインで、一般的な展覧会チラシと比べて一際眼を惹くものだった。実際に手に取ってみてみると、随分ぺらぺらした、新聞紙のような灰色がかったA4サイズの紙に印刷されていた。裏側も同じようなデザインになっていて、タイトルと会期、場所以外の情報がほとんど見当たらず、当惑させられた。一見しただけでは、会場が「森美術館」となっていなければ、そもそも美術の展覧会を告知したものかどうかもわからない。ドイツ工作連盟の写真展のポスターや、岸田劉生の作品が素材に使われていたことと、戦前のドイツで人気を博していたグラフ紙を真似したような文字や写真の組み方から、二十世紀の日独間における文化的な交流や、東京とベルリンで花開いた都市文化の影響関係をテーマにしているらしいという推測はできた。
とはいえ、ここに素材として使われている作品を知らなければ、タイトルだけからでは、ほとんど何もわからないのではないだろうか。実はこのチラシが二つ折りになっていて、その内側に、最初に私がこのチラシをさんざんためつすがめつして探したもの、すなわち出品作品のカラー写真や、展覧会のテーマ構成などについての詳しい解説が印刷されていたことに気づいたのは、ずっと後になってから、展覧会を見てしまった後だった。
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展は、一八八〇年から現代までの一二五年間における、ベルリンと東京の文化的交流の歴史を、時系列的にたどるものだった。時代やテーマごとに十一の展示セクションから構成され、美術をはじめ建築や写真、工芸、演劇といったさまざまなジャンルを網羅した約五百点もの作品を集めた、きわめて意欲的な試みである。六月からは、内容を一部変更して、ベルリンの新国立美術館への巡回が予定されており、この二つの都市の文化交流の歴史が双方の立場から顧みられることになる。
この不可解なチラシにも関わらず、タイトルに「ベルリン」とあるだけで、筆者は過大な期待を抱いていた。十九世紀から二十世紀の転換期からナチスが台頭するまで、映画や新聞といったメディアの発信地であり、アヴァンギャルド運動の代表的な実験場でもあったベルリン。第二次大戦後は、東西区域に分断されるという数奇な運命にさらされたベルリン。また壁崩壊後は、旧東ベルリン地区に国内外から多くの若いアーティストが集まり、パリともニューヨークとも違う、独特のアート・シーンを作り出したベルリン。複雑な歴史を背負ったこの都市の文化が、東京との関わり合いのなかでどのように描き出されるのかと、興味津々であった。
これだけの長い期間を対象としているものの、同展のハイライトは、やはり二十世紀のはじめから一九三〇年代前半にナチスが台頭するまでにおける、いわゆる「アヴァンギャルド」の時代だ。特に絵画の領域では、両国における伝統的な美術を脱却しようとする試みにおいて、それぞれがダイナミックに、互いに影響を与え合ったということが、この時代の造形作品のなかにはっきりと見て取ることができる。それは単に、着物を着た日本女性や和傘など異国趣味を喚起する日本のモチーフが、当時の絵画作品に取り入れられているというだけではない。ベルリンの美術学校で教鞭を取っていたエーミール・オルリクが、日本に長期滞在して木版画の技法を習得し、帰国後に弟子にその技法を伝授した。また、表現主義のグループ「ブリュッケ」や「青騎士」の画家たちが、従来のヨーロッパの表現様式を否定するなかで、日本の木版画に注目、その「原始的な」表現がより「本質」を表すものであると考え、自らの作品にその技法を取り入れていった。こうした芸術のアヴァンギャルド運動を牽引していたヘルヴァルト・ヴァルデンが、作品発表の場として一九一二年に開いたのがベルリンの画廊「シュトゥルム」である。
「シュトゥルム」で発表された表現主義の木版画作品が、一九一四年に、ドイツに留学していた山田耕筰らの尽力によって東京でも紹介されたことは、ドイツでも日本でもあまり知られていない。「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展の二番目のセクションでは、このとき日比谷画廊で開かれた「シュトゥルム木版画展」を再現し、そこから「逆輸入」式に影響を受けた恩地孝四郎や、渡仏前の長谷川潔の木版画をともに展示しており、そこにインスピレーションの交換があったことを明確に見て取ることができる。
船や鉄道しか交通手段がなかったこの時代、ベルリンと東京の距離は、今よりはるかに遠かったに違い。移動に何ヶ月もかかるほど遠く離れた土地でありながら、両都市が、相互に豊かな交流関係を築いていたという事実と、革新のために異文化を積極的に取り入れようとした芸術家の熱意には、素直に驚かされる。ベルリン側からみても、キルヒナーやペヒシュタイン、マルクといった馴染み深い作家の作品が、遠い極東の国、日本のアーティストに、同時代に影響を及ぼしていたということは、新鮮な発見となるのではないか。その他にも、ダダの作品と村山知義のマヴォや、ジョージ・グロスの強烈な社会風刺画と柳瀬正夢の共産主義的なポスターなど、様式の類似が視覚的にはっきりと認識できるものが一緒に展示されている。ドイツでおなじみの作品と、よく似た作品が日本でほぼ同時代に生まれていたということが、とてもわかりやすい構成になっているので、この展覧会が、巡回先のベルリンでどのような反響を呼ぶのか、きわめて興味深い。
もうひとつ、ドイツから日本に巡回してきた戦前の重要な展覧会「独逸国際移動写真展」(一九三一年)を扱ったセクションもまた、同展の大きな見どころであった。二十世紀に入ってから、写真や映画という映像メディアが新しい表現手段として急速に普及したが、一九二〇年代になると、そのさらなる可能性を追求しようとする動きが出てきた。この傾向は、そのリーダー的な存在であったラースロー・モホイ=ナジの言葉を借りて「ニュー・ヴィジョン(Das neue Sehen)」と呼ばれるが、その集大成とも言えるのが、ドイツ工作連盟が主催した展覧会「映画と写真」("FIFO")である。ここには、都市や工場などのドキュメントとしてのルポルタージュ写真や、学術研究のための写真、マン=レイらによる実験的な作品、ジョン・ハートフィールドなどのフォト・モンタージュまで、約千二百点が、一堂に会した。あらゆるジャンルの写真を見せることで、芸術、報道、広告など、写真がさまざまな領域で応用可能であることを示したのである。
FIFOは、一九二九年のシュツットガルトを皮切りに、ヨーロッパ各地を巡回した。岡田桑三はベルリンでこれを見て、村山知義とともに日本への招致を実現し、「独逸国際移動写真展」として、東京および大阪で約千点にのぼる作品が展示された。今回の展覧会では、当時の展覧会に出品された写真と、同時代の日本の作家、特に雑誌『光画』で活躍した中山岩太らの作品とを並置することで、FIFOが日本にもたらしたインパクトを伝えている。
ここで残念なのは、今回の展示では、「ニュー・ヴィジョン」の写真の芸術作品としての側面しか紹介されず、報道写真としての側面にはほとんど光が当たっていなかったことである。対象をカメラという冷徹な眼で即物的に捉えようとした「ニュー・ヴィジョン」の写真は、写真展や写真集で発表されただけではなく、グラフ紙などに掲載されて、一般大衆に何かを伝える報道という役割をも担っていたところに、その最大の特徴のひとつがある。当時日本では「ドイツ新興写真」と呼ばれたこれらの写真は、芸術と記録という本来は相容れがたい二つの要素を同時に持ち合わせることになった。木村伊兵衛など、後にルポルタージュ写真家として活躍する写真家の多くは「独逸国際移動写真展」を見ており、「ニュー・ヴィジョン」の写真の報道的性質が、日本の写真のみならず、写真を使った報道にもたらした影響は無視できない。
都市文化をテーマに掲げていながら、同展が、映画と並んで大衆の支持を得ていたグラフ紙というメディアをほとんど扱っていなかったのは惜しまれる。グラフ紙は、ベルリンのウルシュタイン社が発行していた『ベルリン画報』(“Berliner Illustrirte Zeitung”)に代表される、タブロイド判サイズの週刊新聞で、一九二〇年代から、多数の写真が掲載されるようになっていた。最有力の十五紙の部数を合計すると、一九三〇年には五百三十万部も発行され、テレビのない時代においては、大衆の貴重な情報源であった。この時代のグラフ紙の市場における大成功はドイツ特有の現象であるが、これらのグラフ紙は国際的に影響を及ぼし、ジャーナリズム史に大きな足跡を残したため、近代フォト・ジャーナリズムの起源とされている。同展が写真を大きく取り上げながら、報道としての写真への視点が欠けていたのは惜しい。
日本で「独逸国際移動写真展」が開かれた一九三一年は、ミュンヘン在住の名取洋之助の撮影した写真が、初めてグラフ紙に掲載された年でもあった。翌年、ウルシュタイン社の特派員となった名取は拠点をベルリンに移し、報道写真家としての活躍を本格的に開始する。日本の家屋や生活習慣などが、名取の撮影した写真とともに、ドイツ各地のグラフ紙で紹介された。一九三四年に帰国した名取は、日本工房を設立、カメラマンやデザイナーを育て、日本のフォト・ジャーナリズムとグラフィックデザインの発展に大きく寄与した。同展では、日本工房の海外向け宣伝雑誌『NIPPON』と、名取が撮影したベルリンオリンピックの写真が、ファシズムと戦争の時代を扱ったセクションで、戦争プロパガンダの例として紹介されてはいた。しかし、名取がドイツと日本を実際に行ったり来たりしながら、日本にドイツ流ジャーナリズムの最新ノウハウを伝えてその後の日本のジャーナリズムに貢献したことや、逆にドイツでは写真を使って日本の生活や文化を紹介したことを考えると、それではとても充分とはいえない。ベルリンの観客にも話題を提供しそうなテーマにもかかわらず、同展で取り上げられなかったのは残念である。
戦後の時代に関しては、戦前と比べるとぐっと展示のヴォリュームが少なくなり、一九四五年から五〇年代まで、六〇年代、壁崩壊後に、それぞれ一セクションずつが割り当てられていた。この辺りになると、ドイツと日本の文化交流は、特定のイベントや様式の変遷をたどるだけで再構成できるような単純なものではない。相互の影響関係も、戦前とは違い、作品の表面的な現象から見出せるようなものではなくなってしまっている。東京とベルリンという二都市や、その「文化交流」という切り口が、すでにここでは無効になってしまっているように思われた。その理由として、いずれにとっても、アメリカが政治的にも文化的にも絶対的に大きな存在であったことや、ドイツが東西に分裂してしまったことはもちろんあるだろう。さらに、技術の発達によって、交通手段も通信手段も大きく変化を遂げ、人や物の移動が比較にならないほど多くなって、「文化交流」と一言でいっても、ひとつひとつたどっていけるようなわかりやすい現象として現れるものではなくなってしまったこともあるだろう。
壁崩壊後を扱った「ベルリンの今」と題された最後のセクションで、現代のベルリンのアーティストたちの作品を見ながら、それぞれに興味をそそられながらも、なぜこれらの作品が選ばれてここにあるのか、という疑問への回答を見出すことはできなかった。ビデオインスタレーションや壁画、写真など、作品のヴァリエーションは取り揃えられていたが、これらが「ベルリンの今」を知るよすがとなるとは思えなかった。
実は、現代を扱ったこの最後のセクションでは、東京とベルリンで、展示内容がそっくり異なるという。カタログによれば、ベルリン展では「日本の漫画、ニューメディア、そして現代アートを取り巻く都市環境を取り上げ、東京のコンテンポラリーなアート・シーンをより重点的に紹介する」らしい。いったいどのように「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」が紹介されるのか、非常に気になるところである。せめてカタログ上だけでも、東京展とベルリン展の双方の内容を収録してあれば、それぞれがどのように見られているかを互いに垣間見ることができ、交流の新たな次元を切り拓くきっかけとなったのではないか。
そして、ぜひカタログはドイツ語と日本語のバイリンガルであって欲しかった。さらに欲を言えば、ベルリンと東京で販売されるカタログがまったく同一のものであれば、この展覧会はもっとパラレルでおもしろいものになるのではなかろうか。
展覧会を鑑賞したあと、超高層タワー五十二階の展望台からスモッグに霞んだ東京の街を眺めながら、ベルリンで見た、古くてくすんだ感じのカフェでの朗読会や、アーティストの卵が集まる旧東ベルリン地区のアパートのキッチュな中庭などのことを思い出した。これらは、少なくとも訪問者の眼には、アーティストや作家たちがカフェにたむろして日がな芸術談義に打ち興じていたという、戦前の伝説的なベルリンと、あまり違和感なくつながっているように見えたものだ。しばらくして、ベルリン展の最後のセクションの内容がとても気になるのは、東京にいながらにして「東京のコンテンポラリーなアート・シーン」なるものが、まったくイメージできないからだということに思い至った。東京にいて「ベルリン」というキーワードに反応してしまうのは、ごく身近にアート・シーンらしきものが体験できた街へのノスタルジーのためかもしれない。グローバルな現代社会にあって、ベルリンと東京は、百年前よりもずっと遠くなっているような気がしてならなかった。そして、同展のチラシをはじめて見たときと同様の不可解な印象が、強く残った。

[展覧会およびカタログ・データ]
「東京―ベルリン/ベルリン―東京」展
六本木ヒルズ森タワー53階・森美術館(二〇〇六年一月二十八日~二〇〇六年五月七日)、ベルリン新国立美術館(二〇〇六年六月八日~十月三日)。カタログは森美術館編輯・発行、二〇〇六年、総頁数三百八十八。

2007年1月28日

[寸評]地球(ほし)の旅人―新たなネイチャーフォトの挑戦

・会期:2007年1月2日~2月18日
・会場:東京都写真美術館
・評者:信岡 朝子

 「日本の新進作家」シリーズ第5弾でもある本展は、写真表現に関して将来性のある作家を発掘するという狙いで、東京都写真美術館が継続的に企画しているものです。

 今回は、ネイチャーフォトグラファーとして近年活躍が目覚しい三人の作家、菊池哲男(1961-)、前川貴行(1969-)林明輝(りん・めいき、1969-)の作品が一堂に集められ、展示されています。一口にネイチャーフォトといっても、その内容はさらに細かなジャンルに細分化され、本展に関して言えば、菊池氏は山岳写真、前川氏は動物写真、林氏は風景写真というように、各作家が大まかな専門分野を持っています。そうした質の異なる作品を同一会場で見比べられるという点では、小規模ながら興味深い展示内容になっていたと思います。

 三者の中で個人的に印象が強かったのは、やはり菊池氏の雄大な山々の写真でしょうか。実のところ山岳写真(もしくはネイチャーフォト全般)というものは、ある程度似たり寄ったりで見分けがつかないという先入観を常々持っていたのですが、菊池氏の写真は、山の形状や影と光線の具合、雲の配分など、その光景のどの要素に注目するかという「選択」に、独特の美意識と気迫のようなものが感じられ、自然写真にも作家の個性が出るのだなという実感を改めて得ました。特に太陽のように光り輝く月と白馬岳の映像は鮮烈です。

 その他の前川氏、林氏の写真にも、それぞれ特徴があり、それらを見比べるのも面白いのですが、こうした写真展で思うのは、現像方法(それも印画紙焼付けかインクジェットかという違いだけでなく)のほかに、カメラの機種や、どのようなレンズ、フィルムを使って、どのようなシャッタースピードで撮影したかといった詳細が、ある程度解説された展示であって欲しいということです。特にその画像に出ている「効果」が、作家の選択によるものなのか、あるいはテクニカルな特色(あるいは限界)なのかを見分ける意味で、意外と重要だという気がします。

 また、特に現代作家による写真展では、インクジェット・プリントによる作品展示が近年増えてきているのですが(本展では前川氏)、印画紙焼付けの繊細なクリアーさが、美的観点からもっと大事にされるべきだと感じました。図録ではその違いが消えてしまうので、実物を是非見比べていただきたいのですが、肉眼では見分けがつかないと言われても、残る印象はやはり違うという気がします。

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